君にとってのヒーロー
僕は、君に救われて、人生が変わった。
だから、君の分まで一人でも多くの人を笑顔にする。
僕の揺るぎない原点は、君にあるんだ。
東京から広島へ向かう新幹線に乗車し、瞬く間に変わる景色を眺めながら彼を想う。
まだ、春の息吹を感じられないこの時期、車窓から見える景観は物寂しい。
それに、この日を迎えるたびに、僕の心はざわついている。
2013年3月2日。
大学の同期である谷本──タニ──が交通事故で死んだ。
2019年で、6年の月日が経った。
この期間、彼の存在があれば、一体どれほどの人が救われただろうか。
──今年も挨拶に行きます。
彼の実家がある広島にはもう何度訪れたことだろう。
*
昔は、自分に自信なんてこれっぽっちもなかった。
他人と比べて誇れるものがなかったのが起因だと、客観視する。
小学生の頃は、学級委員長をはじめとして、人前に出る機会が多く、どちらかといえば優等生タイプ。
そんな僕に対して、両親は中学から私立へ進学させたかった。
だから受験勉強を強いられ、公立に行く友達と離れた。
両親は、医者になれと言った。
その道が正義であるかのように、そうすることが自分に与えられた価値のように。
僕は、偏差値主義の方針に抗うほどやりたいことがなかったため、将来医学部に入学できるよう必死だった。
中高一貫校での生活は矢のように過ぎ去り、人生で二度目の受験生となったが、結果は不合格。
なんとなく、そんな気がしていた。
高校2年生のとき、自分は本当に医者になりたいのかを考えたとき、明確な答えがなかったのだから。
浪人すると、受験に対してモチベーションが一気に下がった。
でも、このままではいけないと奮い立たせ、改めて何を目指すべきなのかを思慮する。
結論、僕は獣医師を志した。
もともと動物──特に犬が好きで、小さい頃は友達が飼っていたゴールデンレトリバーと触れ合いたいがために通い詰めたこともあった。
自分が好きなものは何かを振り返ったとき、動物の命を救いたい、仕事として動物と一緒にいたいという回答が一番しっくりものだった。
両親には医者の道を諦める旨を伝えたが、案の定反対され、何度も口論を重ねていく。
ただ、観念したのか、実家から通えて国立大学ならば──という条件を提示させられる。
説得したからにはと、がむしゃらに取り組んだ結果、無事獣医学部のある大学に合格。
それでもなお、自分に自信は持てなかった。
獣医師の道を見つけられたとはいえ、その先のビジョンや夢に対して明確な答えを導けなかった。
一方、同級生たちは、将来の目標に向かってイキイキと、そしてキラキラしていた姿があまりに眩しすぎて、僕の存在は彼らを引き立てる影のような存在なのかと思えるほどだった。
そんな僕に、入学して初めて彼女ができた。
自信のなさを彼女で埋めるかのように、ゾッコンになり、大学の同期たちともあまり遊ばず、授業かバイトか、彼女というサイクルで過ごしていた。
浪人生だった彼女は、一年遅れて地方の大学へと進学。それを機に遠距離恋愛なった僕たち。僕は彼女と時間を作ろうと努力して、定期的に現地へ足を運んだ。
だが、大学3年生の春先、唐突に電話越しで振られてしまう。
──ここまで尽くしたのになぜ?
疑問が拭えず、また、2年付き合って電話で終わらせようとしていることに若干の苛立ちを覚えながら、説得する。
「……」
僕が「ちゃんと会って話がしたい」と何度言っても彼女は無言を貫いた。何一つ返答しない姿勢に、いい加減飽き飽きしてしまい、
「──わかった。今までありがとう」
そう言って通話を終えたあと、激昂した僕はケータイを投げ飛ばした。
予期せぬ喪失感に襲われ、止めたくても吐き出されるばかりの溜息を洩らす。
一度、冷静になってから落ちたケータイを拾い、大学の同期のメーリングリストに彼女と別れた報告をする。誰かにこの気持ちを共有し、共感してほしかった。
彼らからの返答を待つこと20分足らずで、元カノから着信があった。
「ごめんなさい。失って初めて気づいたの」
早すぎる改心に呆れてしまい、復縁を拒んだ。
復縁に適した期間があるとはいえないが、せめて2週間くらい経ってからだろう──。
手のひらを返したかのような態度に、寂しさよりも、そんな風に思われてしまう自分がどこか滑稽だった。
程なくして、同期の友人から連絡が返ってくる。真っ先に返答があった人物こそが、タニである。
『集まれる人集まって、今から飲もう!』
時刻は22時を過ぎているのにも関わらず、タニを筆頭に、その声掛けによって何人か集まってくれた。
誰かに話を聞いてもらいたい心境だったため、タニの提案に心を動かされた。
今まで飲み会に参加しても、脇役だった。
だが、今回初めて飲み会の主役になることが決まり、僕は大いに緊張した。
同期たちがいつも和気藹々としており、人を楽しませることができる愉快な人たちだから。
ふと、そんな彼らの前で愚痴を吐露するくらいなら、今回の経緯を面白おかしく話して笑わせたいと思い、事の成り行きを伝えると、うんと笑ってくれた。変に慰められるよりも、ずっと心地よくて、有り難かった。
僕は、タニたちに救われた。
どうしようもなく落ち込んでいるとき、同情以上に、自分を笑顔にさせてくれることの大切さを、このとき初めて知った。
それから半年余りが経った頃、大学祭の開催が近づいていた。
校内全体が装飾を施し、各サークルの部員たちはこぞって何をするかの議論が交わされ、活気づいている。
そんな中、大学祭の企画の一つに学内お笑いライブが予定されていた。
後輩がその担当をしており、誘われたものの人前に出られるようなキャラクターでもないし、笑わせる自信も実力もなく、断った。
しかし直前になり、どうしても人手が足りず、懇願されたため、承諾。
同期の一人を誘い、『ゴールデンレトリーマン』というコンビ名を付けていざ本番。
内容は、漫才とモノボケと大喜利。
自分たちを除く三組のうち二組は放送作家志望の人たちで、普通の漫才をでは勝てる見込みはない。
それどころか自分たちのつまらなさが際立ち、「人前でスベるのではないか」という恐怖心でいっぱいだった。
だから、元カノとの別れ話を漫才の掴みとして披露。
すると、200人近くいる観客は一風変わった芸に興味を示し、盛大に笑ってくれた。
そんな光景を見た僕自身も笑い声が止まらなかった。まさに爆笑の渦を体感する。
しかも、それが自分の話と自分たちのネタによって。
オチを言うまでのわずかな時間強張っていたけれど、予想外すぎる反応に、緊張を吹き飛ばすほどの快感を得られた。
そして、勝敗の結果はまさかの優勝。
シャイで人前で出ることなんてほとんどなかったのに、『大学で一番面白いコンビ』という称号により、校内を歩いているだけで多くの人から声をかけられるようになった。
豊田と話せば面白いことを言ってくれる──そんな風潮にプレッシャーを感じたものの、快感と反省を繰り返して僕は面白くなっていった。
僕は、タニとお笑いに救われた。
今まで、勉強をいくら頑張っても、自分らしくなんていられなかった。
でも、タニが受け入れてくれて、僕の経験で人を笑顔にできた。
ドッと沸き起こる笑いの勢いによって、今まで何重にも覆いかぶさっていた、抑圧されていた何かが解き放たれた気分だった。
以降、シャイでネガティブだった自分が、何事も前向きに捉えられるようになり、明るくなった。
そのおかげか、大学5年生時にはお笑いライブが一年越しに企画され、ゴールデンレトリーマンは二大会連続優勝。
人の笑顔を見ることがこんなにも充実感溢れるもので、気持ち良いものと再認識する。
次第に、将来を考えなくてはいけない時期になった。
お笑い芸人にも憧れたが、獣医学部を順当に卒業して動物病院で働く獣医師を選んだ。
『お笑い芸人』は人を笑顔にする素晴らしい職業。でも、僕は「動物を笑顔にしたい」と思った。
そして2012年3月に卒業し、動物病院に勤務。
朝から晩まで無我夢中で働き、ようやく長期休みを取れたのは、就職してから1年ほど経った3月。
5日間の連休をもらえたため、3月1日から一泊で大学の友人たちと伊香保温泉へ。
久しぶりに羽を伸ばして寛ぎ、大いに楽しんだ。
2日目の早朝。ゴールデンレトリーマンの相方である友人から電話がかかってきた。
朝7時。常識的には考えられない時間の着信に、不審に思いつつ寝ぼけ眼で応対する。
「もしもし?」
返事はない。ケータイの向こう側では彼が嗚咽している。
その反応を見て、僕は咄嗟に「ボケかな?」と思った。だが、様子がおかしい。ずっと、ずっと泣いているのだ。
「タニが──タニが──」
辛うじて、ようやく声に出た言葉。しかし、繰り返すばかりで何を伝えようとしているのかがわからない。
「タニがどうしたの?」
問いかけ、彼はようやく口にした。
「タニが死んだんだ」
理解できなかった。冗談にしてはさすがに度が過ぎていた。
ただ、泣きじゃくる彼の態度で、それがようやく真実だと察する。しかし、何の実感も湧かなかった。
まだ、夢の続きでも見ているのかと錯覚するも、この世界は現実だった。
その日、友人たちには悟られないように平静を装っていたが、何をしたか全く覚えていない。
終日心ここに在らずの状態。
夜遅く。
運転手の僕は、みんなを家にそれぞれ送り、一息ついて帰宅しようとハンドルを握った瞬間、涙がこぼれた。
明日、タニに会いに行く。
言葉を交わせない彼の元へ、会いに行く──。
翌日早朝、タニの旅行先だった北海道へ訪れるため、羽田空港で同期と待ち合わせ。
久しぶりに会う旧友たちとは、道中ほとんど会話をしなかった。
それぞれタニとの思い出と心の中で対面するために、必要以上のことは話さなかった。
火葬場に着くと、タニの両親が僕たちを出迎えてくれた。
黒く包まれた悲しみの色を纏い、頭を下げる。
タニの父親は、驚くほど彼自身に似ていた。タニがまるでそこにいると思えるほどに。
「今日は来てくれてありがとう」
そう言われた途端、僕は人目はばからず泣き崩れた。
この人がいたからタニがいて、タニと大学で出会わなかったら、今の僕はいなかった。
シャイで自信のない僕と、それを好きになれない僕がいただけだ。
自分の人生を変えてくれた人が、もういない。
その事実を改めて痛感させられた瞬間、これまで堪えていたものが溢れ出ていった。
いい大人が、ワンワン大声を出して、寒さを忘れるほど号泣した。
タニの優しさにどれだけ多くの人が救われたのか。
僕だけではない。野生児という言葉が相応しい彼は、不器用でも、他人を想う気持ちは人一倍だった。
友達が落ち込んでいたり、塞ぎ込んでいたりしたら本人以上に気を遣い、慰めの言葉をかけるのではなく、少しだけ常軌を逸脱した行動や態度で人を笑わせていた。
他人から見たら、揶揄されるかもしれないけれど、その行動一つで救われる人が大勢いた。
もちろん、こんなエピソードは本人からではなく、救われた人から聞いた話。
タニは、身近に困っている人がいたら、絶対に見て見ぬ振りをしない。
自分とは関係ない人はともかく、彼の半径内で助けを求めている人がいたら、彼なりの行動と優しさを示して、笑顔を増やしていた。
誰だって、一つくらい他言できない辛いことや悲しいこと、抱えたくないことはある。
でも、タニなら心を開いても良いと思える、そんな人間。
彼は、多分そう深くまできっと考えていない。
だからこそ裏表のない彼に、みんなが心を許せた。
あのとき飲みに誘ってくれなかったら、話を聞いてくれなかったら、今の僕はない。
きっと多くの人が彼に助けられ、僕と同じようにタニに感謝しているはずだ。
これからも、彼は困っている人に寄り添うはずだった。
それなのに、それなのに、あまりにも早すぎる死を受け入れたくなくて、僕は、人生で一番の涙を流した。
枯れるほど泣いたあと、決心した。
彼が僕にしてくれたことを、僕もやろう、と。
悩んでいる人がいたら、決して見過ごさない。
悩んでいる人がいたら、手を差し伸べていく。
幸せな人に、「おめでとう!」と言っても、その人の人生は大きく変わらない。
だけど、辛く、苦しんでいる人に「どうしたの?」と一声かけるだけで、その人の人生は大きく変わる可能性がある。
今、不満や孤独を感じ、希望が見えず絶望の淵に立たされている人を、もしかしたら救えるかもしれない。
タニがやっていたことを、僕が代わりに──。
そんな彼の死によって、僕のこれまでの考え方や、仕事に対するスタンスが変化した。
僕ができること──それは動物の命を救い、動物と飼い主の笑顔を増やすこと。
想いは強固なものになり、全力で業務に没頭をしていたものの、次第に余裕がなくなってきた。
動物病院は、『動物の命を救う』ことが重要であるため、勤務中ほとんど休めず、食事は一日三食コンビニ弁当。無意識的にストレスが溜まり、症状として身体にも出てきてしまう。
僕だけではなく先輩や同期・後輩も同様で、その結果動物病院業界の離職率は増加傾向にある。
このまま長いこと、同じ働き方を続けるべきなのか迷い始めていた。
僕は将来を考えるようになると、今の動物病院業界の体制にいくつもの問題があるのではないかと思うようになった。
そもそも今の世の中、動物自体が減ってきている。
例えば、ピーク時は1200万頭もの犬がペットとして飼われてきたが、今は900万頭まで減っている。
それにも関わらず、動物病院は増え続けてきた。
昔は、「開業すれば食っていける」と言われていた。
しかし、今の動物病院業界は飽和状態。開業そのものがリスクになる可能性が年々高くなってきた。
勤務医として働いていても、一生安心して働ける動物病院はまだまだ少ない。
そして、どこの動物病院も顧客を奪い合う形となり、従業員も疲弊する。
顧客満足度を重要視するのは大切で、お客様が飼っている動物を救うことが僕たちの一番の仕事。
どの病院も似たようなビジョンを掲げているが、動物と飼い主を幸せに、笑顔にするだけが果たして正しいやり方なのだろうか──。
離職率が高く、治療する人たちが減ってしまえば、近い将来多くの笑顔を失うのではないか。
動物と飼い主を幸せにできても、働く人の幸せは誰が叶えてくれるのだろうか。
そんなことを思うようになった僕は次第に、もっと業界の構造が変わればいいと考えるようになった。
経営者はスタッフを笑顔にし、スタッフは動物と飼い主を笑顔にする──そんな幸せの連鎖を。
動物病院同士がライバルではなく、仲間になれる環境が整えられれば、獣医師や動物看護師を目指す人たちも、救われる動物や飼い主も増えるはず。
その未来を実現させるためには、影響力が必要であり、ビジネスを知ることが不可欠。
僕は、初めて経営に対して関心を抱くようになる。
すると、今までとは異なる景色が見えてきて、動物を笑顔にする人たちを笑顔にすることが僕の役割であることに気づく。
獣医師2年目の12月。当時勤めていた動物病院を退職することを決める。
先輩が専門医の卵となり、新たなビジネスを模索するにあたって、僕は彼の提案に乗っかり、マネージャーのようなポジションから、新しいキャリアを歩み始めることを決心した。
いきなり業界改革ではなく、経験を積みながら、少しずつ動物病院の現状にメスを入れていくように。そういう活動をしながら、叶えたい未来を実現させるための影響力や発信力を培うために。
2014年8月。満を辞して仲間とともに起業。
タニが逝去してから1年半が経っていた。
動物病院の開業ではなく、専門医の出張診療ビジネス。
やがて、MBAにも通い始めた。さらなる知識を蓄えるために。
実際、経営学をすぐに実践できる場があるのは、非常に効率が良かった。
大量のインプットとアウトプットを繰り返していくうちに、僕の想いも強くなっていく。
それは、従業員満足度日本一の動物病院を作ること。
従業員の幸せが、動物の幸せにつながり、それが業績につながることを誰かが証明しないといけないと感じたためだ。
もちろん証明するには、膨大な時間がかかる。
加えて、従業員の満足度と称しても、一人ひとりの幸せの定義や捉え方も異なる。
笑顔はどこから生まれて、何をもって幸せになるのか。
動物病院自体を大きくしていくことに重きを置くのではなく、従業員と動物、飼い主の幸せを追求し続ける動物病院を経営していく。
笑顔にするというと、綺麗事のように聞こえるかもしれない。せめて僕の周りにいてくれる人たちには、幸せでいてほしい。
もちろん、『いつも笑顔でいる』が正しいとは思わない。
でも、笑えない事情があるなら、それを取り除きたい。
将来を悲観的に考えず、夢を持って、自分自身の可能性をもっと信じてほしい。
自分の幸せを、当人も知らない奥底に眠る本当の想いを僕は引き出して、笑顔を届けたい。
きっと、タニが生涯をかけてやりたかったこと。
手段は違えど、彼の意思を引き継いでいきたい。
僕は、タニにはなれないけど、タニがやろうとしていたことはきっとできるはず。
彼は僕の人生を変えてくれた唯一無二の正義のヒーロー。
たとえ、辛いことがあっても僕が全て受け止め、助けてあげたい。
僕は、たった一人の誰かにとってのヒーローでありたい。
そんな想いが日に日に強くなっていき、ようやく、整った。
2019年10月。
サーカス動物病院開業。
僕の身近にいる大切な人たちを笑顔にする、笑い溢れる従業員満足度日本一の動物病院を目指す病院がオープンした。
タニの分まで、僕が人を笑顔にする。
決して揺るぐことのないこの想いを胸に秘めて、新境地に挑む。
*
モデル:豊田 陽一
職業:獣医師・経営者
豊田あとがき:
『一人でも多くの人を笑顔にする』
これが僕の人生の目的です。一生叶うことはないけれど、少しずつ近づくことができる夢です。
人見知りだったから、誰にも会わずに誰かを笑顔に出来る献血を始めて、今では82回。
目の前の人を笑顔にしたいと思って漫才を続けて、Mー1グランプリではナイスアマチュア賞をもらいました。
動物を笑顔にしたいと思い、臨床獣医師に。動物を笑顔にする仲間を笑顔にしたいと思い、経営者に。
やってることは毎年のように変わるけど、想いはちっとも変わっていません。
何者でもなかった僕が、ちょっとした優しさをきっかけに、壮大な夢を見るようになりました。
関わった人の人生を、ほんの少しだけでも良くするお手伝いをしたいな、と思っています。
それが僕が受け取ったバトンだから。
これを読んでくれた大切な方に、僕の大切な方の大切な方に、僕の想いが少しでも届いたら良いなと思ってライフストーリーを作りました。
タニに恥ずかしくない人生を、皆さんに誇れる人生を歩んでいきたいと思います。読んでくださり、ありがとうございました。
著者あとがき:
初めて豊田さんと会った人は、きっとこう思うだろう。
「底抜けに明るく面白い人だ」
と。実際に私自身も初対面のときにそう感じた。
縁あってライフストーリーを書かせていただくことになり、5時間ほど取材をしたが、その笑顔の裏には確固たる想いを秘めていた。
谷本さんは26歳のときにこの世を去っている。
あまりにも早すぎる死を体感し、彼がやりたかったことを継承するようにして、今を生きている。
そんな豊田さんは、幸せを追求し続ける動物病院というビジョンを掲げ、オープンしたばかり(2019年10月現在)。一人ひとりとのコミュニケーションを大切にし、個を尊重し、どんな人でありたいか、どんなことを価値に置きたいかを徹底する姿勢。
そうする背景は、もちろん読んでいただいたストーリーに起因する。
豊田さん全体の雰囲気から醸し出される優しさの根源を知った読者はきっと、改めて彼の良さを理解してくれるはず。
身近な人の助けになりたいという、一心の中には、まだ谷本さんも生き続けていることだろう。
ライフストーリー作家®︎ 築地 隆佑