LifeStory

日高容子 | 花は心のラブレター

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花は心のラブレター

──お母さん、覚えてる?
私が小さいとき、ずっとお母さんの店にいたの。

横たわった母の手を包み込むように触れる。
家族の中で唯一私の存在だけを認知した、彼女に語りかける。

──お母さん、覚えてる?
私が手伝っていたのを。

自宅兼職場として洋裁店を営んでいた母の元で、仮縫いをほどいていたり、布地を並び替えたりしていた。

仕事に夢中な母と、二人でいられる空間がとても好きで心地が良かった。
話しかけられなくても、そばにいられる、時間を共有できるだけで、私は満たされていた。

──お母さん、覚えてる?
私ずっとお花をやってるのよ。
お母さんが私を連れて行ってくれた教室から、もう何十年も続けてるのよ。

花は、表現の楽しさを教えてくれた。
そして、それは私そのものになった。

──お母さん、ごめんね。お母さんの願いに応えられなくて。継げなくてごめんね。

握り合う手と手の力加減が同じように思えた。
ハッとして、優しく左手も添えた。こぼれた梅を風に飛ばされないようにして。

──お母さん、私、東京で先生と出会えたのよ。
もう何回話したかわからないけれど、お母さん。私ね、まだやりたいことがあるの、たくさん。

認知症になった母の耳に、子守唄を歌うように届けた。
寝台のすぐ隣には、コサージュが飾ってある。

 *

引っ込み思案で、天邪鬼だった私は、心の内を口にするのが苦手で、大人を困らせていた。
本心を伝えられないまま成長し、いつの間にか極端な人見知りになっていた。

高校1年生になったとき、母は私を生花教室へ通わせた。

最初こそ、嫌々ながらだったけれど、長崎の五島列島出身もあって、家の周りは緑豊かな環境。
知っている花を扱っていくと、少しずつ楽しくなっていく。

もともと洋裁店でボタンや布地などのカラフルなものに触れていたせいか、花々が放つ色の美しさや可憐さに惹かれ、気づけば虜になっていた。

卒業後、大学では教職員の資格を取得。
趣味として生花を続けながら、地元の学校で教壇に立っていた。

数年が経ったとき、現状のレベルでは満足せず、スキルやフラワーデザインをもっと磨きたい欲求が芽生えていった。成長する木々たちが、雨と太陽を望むように。

それに、いつまでも実家に留まるよりも、もっと広い世界を覗きたい気持ちもあった。
タンポポの綿毛のように風に乗って舞う自分を想像すると、少し照れくさい。
それでも、自然の赴くままにどこかで学びたいと願っていた。

参考資料として、全国各地にある学校の願書を取り寄せる。
一つ、また一つと眺めている中、パンフレットとは別に同封されていた小さな紙を発見する。
記載されていた言葉に、私は釘付けになった。

『花一筋に生きてまいりました』

文字を見た途端、言霊のような魔力が働いたのか、まだいくつかの未開封の冊子を捨てた。
まるで何かが乗り移ったかのように、東京行きの航空券を手配する。
私の内に秘めた魂がその文言と、それを綴った主に共鳴しているのを感じ、吸い寄せられるように向かっていた。

エアチケットと手紙以外に、何もいらない──

ゆっくりと都心へ近づくごとに鼓動が早まっているのがわかった。
すぐにでも、あの人の門を叩きたい。高ぶる想いを抑える方法を、私は知らなかった。

そこは専門学校でありながら、提携先の職場で働きつつ学べるところ。
週に3日は勤め、3日は勉学できる環境に身を置くことになった。

入学して間もなく、あの言葉の持ち主に声をかけられた。

「日高さん、あなた私についてきなさい」

突然言われたものだから、なんのことかさっぱりわからず、アシスタントとして後ろをついて回っていた。

50代半ばを過ぎてもピンヒールを履きこなし、見た目からして一般人とは異なるオーラを発している。
人生で初めてカリスマ性のある人間と知り合った瞬間だった。

不思議な感覚を抱きながら背中を追い続ける。
他の生徒とはまったく違う対応にしばしば困惑したけれど、一緒にいられる日々に喜びをかみしめた。

そのとき、昔の私を思い出した。
小動物が親の後をぴったりとくっついているようにしていたあの頃。
洋裁店にいる母から離れようとしなかった幼い私を。

1年間のカリキュラムを学び終え、卒業を控えるタイミングで先生が、

「私の元にいなさい」

と、最初はその意味を汲み取れず呆然と立ち尽くす。
そう言ってから何事もなかったかのように優雅に歩き、艶美な雰囲気を醸し出す後ろ姿。
伸びた背筋や光沢感のある洋服が匂い立つ。

ほんのわずかな時間、硬直し、目で追いながら真意を理解した途端、心も体も震えていた。
私はこの上ない幸せを覚え、手にした手紙に導かれたのは、やはり運命なのだなと悟る。

東京での滞在を決めた私に、先生は私の母に電話をした。

「容子さんを預からせてください」

それを聞いた母は、──手を焼き、変わっている子だから迷惑をかけられない──と渋るも、先生の強い説得に応じ、私を送り出してくれた。

弟子として受け入れるためにとってくれた行動に、私を認めてくれた、見込んでくれた意志を感じ取り、本気でこの人についていきたいと考えるようになった。

 諾後、すぐにアシスタントではなく、指導の一環で一年間だけ外へ修行をしに行った。

花屋の店長、教室の講師になったとしても、お客さんや生徒の好み、やりたいことを短い会話の中で把握して、希望する花を届けなければならない。
そのためにはある程度の話術とコミュニケーション能力が必要だったから。

スクールに戻り、先生と生徒の関係を超えた近い距離で接していくと、彼女のカリスマ性が如実に現れる。

何をするにも、花一筋の尊い女性。

覚悟を持って生きているのが、所作一つひとつに表現されている。

プロとして決して曲げてはいけないものを貫き通す力強さ。
人生において優先順位の第一位は花で、一切の妥協を許さない精神力。
そして、麗しさと壮大さを兼ね備えた作品たち。

圧倒されるばかりだった。

それゆえ、ついていけない人たちもたくさんいた。
誰にでもその考えを強制し、圧力をかける理由から去っていく人も少なくない。
一般論では説明のつかない才能を持ち合わせた雲の上の存在。
嫌う人間も批判する人間もきっとごまんといただろう。
でも、慈愛に満ちた深い愛情を備えているのを私は知っている。

私たちにはそれぞれの世界観があり、ときにはぶつかる日も。
度々、そのセンスに疑問を抱いても、当たり前のように個性があり、生き様が花に宿るものなのだと、私は全てを受け入れるようになった。

永い時間と経験がお互いを許容し、認め合うことで、やがて師弟関係から同志──というにはおこがましいけれど、そんな二人となった。

私にとって花は、先生にこそありと言っても過言ではない。
入学直後、声をかけてくれなければ、きっとまったく違う人生を歩んでいたのかもしれないから。

3月11日、東日本大震災が起きた。

九州新幹線の久留米駅での開通式の花を生けていたときだった。
被害の深刻さをその瞬間は感じられず、ただ、何かできないかと考える。

ボランティアで高齢者に向けて指導したハンカチコサージュが、1年後、現地の在宅被災者の手に渡っていた。
今度は直接来訪を願う依頼を受けて、材料と寝袋を担いで被災地へと向かう。

そこは凄惨たる光景と、地域コミュニティーがズタズタに引き裂かれていた場所だった。
家を無くしたもの、人を亡くしたもの、大切な何かを失くしたもの。
それぞれが抱えながら、隣に住む人を心から理解できない状況。

被災者の一人の女性は、最愛のパートナーが帰らぬ人となり、夫が愛用していたネクタイを大事に持っていた。
彼女は堪えきれない、どうにもならない現実に打ちひしがれ、悲しみが消えない永遠を生きている。

そんな、彼を愛していた気持ちを、私なりの形で残した。

ネクタイが花に変わり、愛おしそうに両手の平に乗せたコサージュ。
遺影に向かって微笑んで語る彼女の姿を見たとき、花は、大切な人へのメッセージにもなり、想いは自分自身にも届くものと知った。

彼女は何枚も持っている形見でコサージュを作り、それらを亡くなった旦那様のゆかりある人たちに配っていった。

広範囲で甚大な影響を及ぼした自然災害に、なす術もないと思っていた私は安堵し、東京へ戻った。
復興の見通しはまだ当分先だとしても、私が貢献できることを探しながら東北に祈った。

それからしばらくして、何気ない日常を過ごしていたある日。

私は録画していた番組が突然切れたときのような感覚に陥った。
ついさっきまで見ていた風景が暗幕に包まれたみたいに視覚を奪った。

目を覚ますと、馴染みのない部屋。起き上がれず、違和感を覚えても、身動き一つ取れない。
意識が朦朧としたまま、ここが病院だと無機質な内装を見て理解する。

そのとき、母がいる老人ホームにいるのかと錯覚する。

かぶりを振る。もう母はいない──
震災が起こった翌年に老衰で亡くなった。

身体を無理に動かそうとしても、右半身に力が入らない。
診断結果は、脳出血。

少し落ち着いたタイミングで医師から告げられた一言はあまりにも残酷だった。
左手で麻痺した部分を撫でると涙が出そうになる。下唇を噛み、これからどうなるのかを考える前に私は自然と、

──ハサミ持てるかしら。

と、真っ先に思った不安と心配が、花の仕事だった。
家事よりも生活よりも何よりも、私が表現したいものができるのか。瞬時に、そう脳裏をよぎった。

まだ、終われない。いえ、ずっと──

 *

2012年に母は他界した。
彼女がまだ呼吸をしていたとき、私はアートの業界に足を踏み入れられた。

ずっと母の願いが、心のどこかに罪の意識として引っかかっていた。跡を継げなかったことを──

せめて生きた証、想いを残したいと思い、洋裁店で使っていた糸と植物を組み合わせてコサージュを手がけると、芸術の世界で作品として評価され、賞を獲得。
それを母の目に少しでも留まってもらおうと、老人ホームへ寄贈した。

母の薄れゆく、消えゆく記憶であっても、生き様がつまったものが近くにあれば、何かきっと思い出すかもしれない。

母も、先生と同じように一筋の道に人生をかけていたから。

そうしようと考えたのは、彼女のファンが大勢いたのも理由の一つだった。
型崩れもなく、着心地の良い、ファストファッションにはない温かみに惚れ込んだ人たちが、寝たきりの母にエールを送っていた。男女問わず、何十年も前に作られた服を未だに着続けている。

中には当時、小さかった私を覚えている人もいて、

「あなた、いつもお母さんのそばを離れなかったわね」

と、懐古しながら成長した私を見る。その瞳に映る私は彼女のように生きているだろうか──

しばらくして母は安らかに眠った。
ありがとう、そして、ごめんなさい。

涙が止まらなかった。
溢れ出るものを抑えられなかった。

私を生花教室に連れて行かなければ、今、どうなっていたのか想像もつかない。
そうしてくれたから、先生とも出会えて、花の仕事に夢中になれた。引っ込み思案が直ったのも、母のおかげ。

──お母さん、大好きよ。

あの日、脳出血で倒れ、右半身麻痺になったけれど、私は諦めたくなかった。
ずっと花を、花だけに留まらない表現を、私は続けたい。
リハビリをして後遺症は残らなくても、以前のように100パーセントの腕には戻れなかった。

それでもその事実を受け入れて、今の私らしい生き方を貫いていけば夢は実現する。

どんなにくじけても、どんな高い壁にぶつかっても、どこかで迷いそうになっても、ありのままで挑戦すれば、いつか必ず叶うと信じている。

極端な人見知りだった私が、今に至るのは花というコミュニケーションツールがあったから。
フラワーギフトを手がけるようになったのも、今度はみんなに代わって想いを届けたいと思えるから。
見知らぬ誰かが、一言で人生が変わるかもしれない場面で、花に想いを添えて告げれば、きっと道は切り拓かれる。

秘めた気持ちを心の中に閉まっておいてはいけない。
全てを開示するのが難しければ、何かに託しながら伝えてほしい。

──花一筋で生きてまいりました。

とは、おこがましく、まだまだ言えた身分ではないけれど、先生のように、そして、大好きな母のように在りたいと願う。

私にとって花は、心のラブレター。

モデル:日高 容子
職業:フラワーライフナビゲイター

あとがき:

人見知りで、気持ちを伝えられない原体験があったからこそ、日高さんの想いは深く、強い。
また、脳出血となり、意識不明の状態から復活して、最初に思ったことがあの言葉というのは、きっと天職であり、この仕事が彼女の使命なのだろう。
このライフストーリーで出てきた先生の名は真子やすこ氏。
日高さんと二人の目標・夢が、ともに生涯現役で花一筋で生きて行くことだそう。
多くの人が、右半身麻痺等の病気を経験すると、本来の力を発揮できなくなって夢を諦め、断念してしまうだろう。
だが、その事実を受け止め、受け入れ、今の自分でも叶えられるように気持ちを前に向けて突き進むことの力強さをたくさんの人に知ってほしい。
どんなに過酷な状況下でも、自分の信念さえブレなければ道は切り拓くと、私自身も信じている。
日高さんの生きる全てが、一つひとつの花に込められている。誰かが秘めている気持ちを、きっとその花は届けてくれるだろう。量産型ではなく、きちんと日高さんはひとつずつ丁寧に手掛けてくれるから。
家族の誕生日にでも、照れくさいけれど花をお願いしようかなと思えた。

         ライフストーリー作家®︎ 築地 隆佑

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