LifeStory

藤間俊介 | 人生を恋で変えよう

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藤間俊介 | 人生を恋で変えよう

人生を恋で変えよう

扉一枚、隔てた先から、司会者によるアナウンスが聞こえてきた。
参列者はざわついているようだけれど、何を話しているかまではわからない。
間もなく、始まる。

入場の直前まで、担当のプランナーから歩き方や歩幅、腕の組み方、移動の仕方など事細かに指導された。
普段は、新郎新婦の写真を撮るためにスタンバイしている側で、一連の流れは全て把握しているつもりだった。
だが、いざ自分が主役になると別の緊張感が生まれた。

挙式と披露宴は、何十回も見てきた。
仕事として、全力で取り組んできた。
そんな僕が、まさかこういう場面に立てるなんて思いもしなかった。

「新郎新婦のご入場です」

扉が開かれたと同時に、スポットライトが当てられる。
眩しい光と盛大な拍手を浴びさせられた僕は、涙がこみ上げてきそうだった。華やかな音楽に包まれながら、指示
通り歩く。

「おめでとう!」

鳴り止まない歓声に照れながら、みんなの表情を眺める。
大好きな人たちが祝福してくれている。見慣れたはずの光景だった。
会場にいる誰よりも現場を知っているはずだった。
でも、こんなにも感極まるものだなんて、知らなかった。
友人に囲まれて結婚式を挙げられる日がくるなんて、想像もしていなかった。

自分に自信がなくて、友達は皆無だった。
誰一人として、呼べる人がいないと思っていたから。彼女と出会えて運命は変わった。
そして、偶発的でも携われた今の仕事をしている喜びを、この瞬間、ようやく理解できた。
僕は初めて、ブライダルフォトグラファーとして活動している幸せをかみしめた。

小学校から高校まで、友達はいなかった。
親の転勤で、新潟から長野へ引っ越したことで環境の変化に慣れず、土地にも馴染めず孤立していた。
「ノロマのトーマ」
運動神経も乏しく、鈍臭いことから、そんなあだ名が付けられる。学校に行きたくない気持ちが日々募りつつも、
両親に心配をかけたくなかった。なるべく休まずに、だが身体を引きずってまで登校する毎日は苦痛でしかない。
プロレスごっこと称した暴力は、端から見ればいじりかもしれないが、僕からすれば、れっきとしたいじめ。

ただ、たとえそれでも、ヘラヘラと笑い堪えていた。
僕は孤独を恐れていた。

嫌々ながら接しても、一人取り残されることだけは避けた。
誰かと一緒にいたい気持ちがあっても、それを好意的には受け取ってもらえない。
ドラえもんでいうのび太くんのような存在。人と繋がっていたい。
時間を共有したい。

少年時代のささやかな願いは、苦い思い出になっていた。
そのせいで、人生は退屈だ、と卑屈になっていた。
だが、将来を考えたある日、僕は全て周りに原因があると決めつけていただけと気づく。
結局は自分の振る舞い方や態度が、相手を誘発させている。
いつまでも周囲や環境に甘んじず、変わらなければならないと思うようになっていた。

その頃は大学受験を控える年になっていたため、勉強をし始めるものの、偏差値は描いたようには伸びず、失敗。
対人関係はおろか、勉強ですらうまくいかない自分の無力さや情けなさに落胆した。
結果、フリーターとなった僕は故郷を離れることにした。

幼い頃からテレビっ子だった自分は、東京に憧れを抱いていた。小さな箱に映るその様は、田舎者の僕にとっては
華やかなものとして捉えていた。流行の最先端が首都圏に広がって、それを随時放送しているのを見ているだけで心は踊った。

年相応にファッションに興味が湧いていた僕は、アパレル店で働こうと決心。
知り合いがいない中での上京は、挑戦だった。

だからこそ、生まれ変わろうという気持ちにも拍車がかかる。誰も知らないというのは、逆にチャンスでもあった。
ただ、20年近く育ってきた土地を離れるのに不安がなかったわけではない。
それでも、一度決めた以上はやり遂げたいという想いで、とある有名ブランドの店舗で勤務し、そこでできた知人を介して、飲み会へと参加。
休日のたびに、新たな出会いを求める日々。

しかし交友関係は広がるも、心から仲良いと思える人には巡り会えない。その場では盛り上がっても、二人でご飯
に行ける間柄かを考えると、自信がなかった。
そんなことを繰り返していたある日、僕の運命を変えた一人の女性と出会った。

上京、3年目。

すっかり東京色に馴染んでいた僕は、ライブ活動に身を捧げていた。
もともと歌が好きで、以前に比べて、カラオケに行く頻度が多くなっていた。
アパレルショップで働いていた同い年の男とは、音楽の話で意気投合。彼は幼少期からピアノを習い、作曲もして
いたが、歌唱が苦手だった。

同じ職場で頻繁に顔を合わすものだから、自然と仲良くなっていき、やがて彼から、
「バンドやらない?」
と提案され、その場のノリと勢いに乗じることを決意した。

初公演の日。
緊張と不安が混ざり合った、絵の具では言い表せられないような濁った心情に鼓動は高まるばかり。
リハーサル。何組も出演するうちの一組だった僕たちは、呼ばれるまで楽屋で待機。そこで一人の女性アーティストと知り合った。

簡単な挨拶をしていると、お互い初ライブとわかり、親近感が湧き、会話が盛り上がった。だが、ほんの数分間の
出来事で、区切りのいいところで、準備に入る。
本番を迎えた彼女のパフォーマンスに見入ってしまった。

煙なのか埃が漂っているのかわからないライブハウスには、似つかわしくないピアノの弾き語りから奏でられる音
色が宙を舞った。小汚く、じめっとした空間でもそれが演奏する上でのアイデンティティーであるかのような場
所に、一輪の花を添えた美しさが、あった。

そんな出会い方から始まり、彼女とは偶然が重なって街中で何度も出くわした。音楽という共通の話題で話に花が
咲き、週に一度のペースでお酒を飲み交わす。
最初は、親しい友人の一人として認識していたが、知り合ってから2年近く経過し、二人で美術館へ行ったとき、
彼女に対する意識が変わった。

たまたま、とても近い距離で絵画鑑賞していたことをきっかけに、女性として見るようになっていた。
突然芽生えた恋に、どんどん気持ちは高ぶっていく。
ある日、パソコンが動かないから直して欲しいという相談を受けた。
当時、実家に住んでいた彼女のところへ行き、その作業を終えたことを機に、僕は想いを告げようと決心。

「そろそろ付き合ってもいいよね」

レストランで食事をしつつ、対面に座る彼女に向かって
言葉を洩らすと、唖然とした表情を浮かべて、

「いや、そんな風に見てないんだけど」

一蹴。
すんなり良い返事をもらえると思っていたため、僕は少し気が動転しながらも彼女を説得。
気づけば終電を逃すほど話し込んでいた。

しかし、話は平行線で、両者ともに折れなかった。
痺れを切らしている態度が垣間見えたとき、僕は意を決して言った。

「じゃあさ、付き合わなくてもいいから結婚しよう」

当時、その願望はなかった。
ミュージシャンとして活動していきたいと本気で考えていた。
だが、家賃は払えても、余裕ある生活ではない。結婚なんて夢のまた夢。
それでも、彼女に対してそう伝えたのは、運命の相手だと感じられたから。
魂で繋がっているような、不思議な感覚を、僕は抱いていた。

人生を添い遂げたい。たとえ、今でなくても最終的に結婚相手として選んで欲しい。

ただ、どうしても交際はしたかったため、粘りに粘って、二週間だけ付き合おうという提案で落ち着いた。
以後も猛烈にアプローチを続け、常に好きな気持ちを言葉と態度で表現していく。

その日から1年。
彼女が僕に対する感情にも変化が生じ始め、ようやくお互いを想い合う付き合いをスタートさせる。

さらにもう1年ほど経った26歳の年の春、東日本大震災が発生。
世間は節電モード一色。

当然、音楽業界も自粛する動きが出ていた。

同時期、組んでいたパートナーとも今後の方向性について揉めるタイミングも重なり、僕は震災を機にミュージシ
ャンとして食べていく道を諦めた。

それに、彼女の方が音楽的センスははるかに上だった。
それぞれ譲れないものを持ち、ときには喧嘩をすることも。
実力のなさや現実を突きつけられた背景もあり、きっぱりと身を引いた。

とはいえ、大した職歴もない自分が将来を考えたとき、絶望しかなかった。
そんな折に、お世話になっていたプロデューサーの人から、とある提案を受けることに。

「写真事務所で雑用でもいいから働いてみない?今猫の手も借りたいほど人が足りてないんだって」

行くあてもなく、路頭に迷うよりかはいいかという簡単な判断で下した会社は、結婚式での写真撮影をメインで行
なっているところだった。
業界は未経験でも、CDのジャケット用の写真を撮ったりしていたことから、早い段階で慣れていく。

指導してもらいながら、2ヶ月が経過したとき、早速デビュー。
初めて本番を迎える前日は、眠れなくなるほどの緊張。
一生に一度の結婚式を、まだ素人同然の自分が手がけられる自信なんてなかった。
ベッドで横になっても目が冴えたまま、翌日を考えると、鼓動が鳴り止まない。
当日を迎え、なんとか無事終えたとき、想像していた以上の疲労が僕を襲った。

その挙式を機に、派遣回数は増えていく。
初日ほどの緊張感はなくても、カメラを持つ手が震えないときはなかった。
よくわからないまま撮り始め、知識が浅いながらも経験値をどんどん積んでいった。

最初は、あまり楽しさを見出せなかった。
だが、毎日のようにカメラを扱っていると、いつかカメラマンとして名乗れるようになれたらいいなという、淡い
将来像を描くようになっていた。

技術は未熟でも、サービスでは絶対満足させようと考え、行動していた。笑顔や瞬間の美しさを引き出すためには、コミュニケーションをとらなければいけない。カメラマンとはつまり、接客業だと思って接していた。

そのおかげで、新郎新婦から可愛がってもらえるようにもなった。二人からタメ口で話されるくらいの関係性を構
築したことを実感すると、少しずつ僕は自信を得るようになっていく。

ブライダルフォトグラファーとしての面白さを日々味わっていくうちに、月日はあっという間に流れ、2015年
7月に僕と彼女は入籍した。
付き合い始めてから約6年の歳月。
その半年後の二月に目黒の雅叙園で挙式を行なう段取りとなっていたが、招待状を送るタイミングになったとき、
僕はかつてないほどの勇気を振り絞らなければならなかった。

誰に声をかけていいのか。
そもそも声をかけていいのか。
招きたい人への一報を送ることに、抵抗感があった。
迷惑ではないか、誰も来たいと思わないのではないか。
考えれば考えるほど、ネガティブ思考に陥っていく。

かつて、いじめられていた。
友達なんて、いなかった。
祝ってくれる人は誰も。
過去を振り返ると苦しくなった。

自信のない学生生活だった。味方なんていなかった。孤独な時間を過ごしていた毎日。
たった一言、誘う言葉を投げかければいいのに、ケータイを握りしめながら、最後のボタンだけ押すのをずっとた
めらっていた。

「しゅんちゃん、早く決めなよ」

彼女が呼びたい人はすぐに決まり、僕を催促する。
確かにずっと悩んでいても仕方がなかった。それに、招待状の送付期日が迫っている。
勇気を出して、送るしかない。
リストアップした人たちの名前を見ながら、僕は一人ひとり送信していった。

2016年2月7日。
友人たちに囲まれて、祝福されるなんて夢にも思わなかった。
連絡した、ほぼ全員の人から即答で、

「おめでとう!もちろん行かせてもらうよ。招待してくれてありがとう!」

という声が次々と届いた。
中にはブッキングして来れないという人もいたが、参列者はおよそ50人。
不安を抱きながらケータイを握りしめていた時間が馬鹿らしく思えた。

ミュージシャン時代に出会ったメンバーもいれば、20代前半のときの飲み会で知り合った人、お世話になってい
た先輩たち。学生時代からの付き合いでなくても、こうして信頼できる人たちから祝われることが、この上ない喜びだった。

ブライダルフォトグラファーとして活動して4年ほど経ったけれど、その当時、新郎新婦はみんな6歳くらい年上
の人たちばかり。豪華絢爛にやって楽しんでいる雰囲気が、どこか遠い世界での出来事のように映った。

自分には縁のない話。

誰よりも近くにいるのに、どこか他人事だった。
幸せを想う気持ちはあれど、それはカメラマンとしてであって、藤間俊介としてではなかった。
だが、僕自身が式を挙げたことによって、一気に見え方に変化が生まれた。
挙式の流れは全て把握し、理解している。

奇をてらったものでなければ、構成のほとんどはどの夫婦も一緒だ。僕たちも例外ではない。
見慣れて、何度も経験してきたのに、初めて自分ごとになったとき圧倒された。

ずっと叶うはずのない夢物語だと思っていたからこそ、僕は涙を浮かべていた。
それに、こういう場が開けたのは、紛れもない彼女のおかげ。
付き合うまでは大変だったものの、6年という長い年月を共にし、信頼と愛を積み重ね、これから長い人生二人で
歩んでいけることへの感謝を、みんなに伝えられたのは本当に幸せだった。

結婚式という舞台は愛を誓う一つのしるしであり、覚悟の表れだ。

スーツですら着慣れないのに、目黒の雅叙園で行なった和装婚は、最初ぎこちなさを覚えたけれど、無事多くの人
たちに見守られて挙式を終えられた。
少し落ち着いた頃、当日の写真を眺めていた。

撮ることは好きでも、写っている自分を見るのは、少し照れ臭さかった。
撮影するその瞬間はよくても、毎日のように写真を見返しはしない。
僕は、それでいいと思っている。

振り返るタイミングなんて、長い人生においてもせいぜい数回程度だろう。
けれど、そのたった数回でもいいから、残す意義を理解してほしい。
年月の経過と共に少しずつ忘却され、どこに誰がいたなんて忘れてしまっているはずだ。

それでも、一枚の写真があれば、全てが蘇る。あのとき、あんな風だったよね、という会話が生まれればそれだけでいいのではないか。
モノクロだった記憶が、たった一枚を機に、彩りを加えてくれる。
それが良さであり、写真だからこそできること。

人生で一番幸せだったとしても、細かいシーンまでは誰も覚えていない。
でも、こんなにも充実して、幸せを噛み締めるイベントなんて、人生においてそう多くはない。
それに、自分が愛している人の、最も綺麗な姿を見られて、残せれば、美しさは永遠に生きている。

今や、社会的に結婚に対する意識はどんどん低下している。その一番の要因となっているのが、金銭面だ。
費用の捻出が難しいという現実問題はあれど、無理してでもやはり挙げてほしい。
結婚式はこんなにも美しいのに。
恋する自分たちが一番輝いていられるのに。

そもそも恋愛に後ろ向きになっている原因は、自信のなさではないかと感じている。
僕も、はじめはなかった。
けれど、恋をして、自信を持ち、友人に囲まれて挙式をしてから、今の僕はこの仕事に誇りを持っている。
結婚式はそんな新しい自分に気づける場所。

だから、恋をして、誰かを愛して、二人だけの世界を、二人が愛している人たちだけを集めた結婚式をしてほしい。
そして、その幸せ絶頂の瞬間を、カメラを構えた僕が収める。

挙式後、もっと好きになった妻がいる。
愛している妻と過ごせると思うと、毎日が楽しくて仕方がない。

人生は長いようで、あっという間。
短い中、一生涯付き合える人を見つけ、共に暮らす喜びをもっと体感してほしい。
恋で変わった僕は、恋の楽しさを知っている。
自信を持って恋をしてほしい。
あなたにしかないその魅力を、見つけてくれる人がこの世には必ずいるのだから。

モデル:藤間俊介
職業:ブライダルフォトグラファー

あとがき:
個人的な体験ではあるが、私は2017年に11回結婚式に参列した。
当時28歳の年で、結婚ラッシュが続くのは承知の上だが、まさかここまで多くなるとは想定していなかった。
やはりどの挙式を見ても感慨深く、ときには涙することもあった。

ただ、人間の記憶は薄れる。
何年か前に参列した式を覚えているかというと、自信はない。
だが、たった一枚の写真を見れば、どんな演出だったのかを瞬時に思い出すことができるのは写真ならでは。
二度とない結婚式は、夢のような時間だろう。
どんな夫婦も、その日は終始、笑顔でいるのだ。
そんな瞬間を彼トーマスこと藤間さんは切り取ってくれる。

レンズを通じて、幸せなシーンを一枚の写真に封印する。決して、永遠に廃れることのない思い出。
ブライダルフォトグラファーというカテゴリーを見れば、世の中には数多くいる。
だが、彼は自身の結婚式を挙げたことによって人生が変わり、その喜びを知っている。

そういう背景がある人は、一体どれだけいるのか。
こうして読んでくださっている読者と、トーマスさんとの縁はきっと何か意味のある出会いなはず。
もし、読者が恋をして、愛を知り、その日を迎えるならばぜひ依頼してほしい。
彼が持つカメラを通じて、きっとあなたの人生も変わるはずなのだから。

ライフストーリー作家®築地隆佑

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