落ちこぼれの反逆児
「大学も行けなくて、専門学校も中退ってどういうつもりなんだ!」
こんなに声を荒げた父を、生まれて初めて見た。
その怒りの対象者は紛れもない私、なのではあるが。
幼少期から家族の期待を背負われ、これまで生きてきた。
好きで税理士になる気はなく、言われるがままに成長した結果の賜物。
そもそもこの仕事がどんなものなのかを高校の卒業くらいのときに知ったほどだ。
「勉強も駄目で、続きもしないのか!」
父がまた私を罵る。売り言葉に買い言葉というのを理解していても、反論した。
どこかで悔しい気持ちがあった。その想いが目尻から溢れる雫となって現れる。
──私は、落ちこぼれ。
4年制の専門学校を3年で去った。
夜の7時になってもまだ陽が顔を覗き活発にさせる時期。
そんなときなのに、私一人だけ孤立しているような感覚に陥った。
勉強のペースを掴めず、義務教育のようなスパルタ指導が性に合わず、退いた。
継続できない、両親に抗う形になってしまった自分に苛立った。
*
「こうして美味しい料理を食べられるのはお父さんのおかげなのよ。将来、由一もそうなれるよう税理士になりなさいね」
まだ小学校1年生の頃、家族4人で近所の中華料理屋へ出掛けたときのこと。
天津飯を頬張る私を見て、母が語る。
目の前に出された料理を挟み、柔和な表情を浮かべながら私の頭を撫でた。
「ぜいりし?」
もちろん、税理士なんて言葉は理解できず、おうむ返しをする。
母は答えずに、私に向かって微笑んでいるだけだった。
一瞬疑問を抱くも、好物を早く平らげようという気持ちが勝り、気にしなかった。
1ヶ月ほど経ち、同じ店に足を運び、私はまた天津飯を注文する。
「由一は本当に好きなんだね。大人になって税理士になったら好きなだけ頼めるのよ」
姉には言わず、執拗なまでに私に諭していく。
幼いながら母のセリフを真に受け、イメージの湧かない職業にいつの間にか憧れを抱いていた。
好きでサッカーはやっていたので、もしプロになれなかったらと、自分の中で将来の私は二択だった。
当時はわからなかったが、母がそうし続けることによって、私がその道を自然と選ぶよう仕向けていたのかもしれない。
夢は、父の背中を追い、天津飯を食べる。
今考えれば、笑ってしまうような目標を持つことに何の違和感も抱かなかった。
そのとき知る由はなかったが、決して高級店というわけでもなく、至って普通のファミレスのようなところ。
満足に外食できるのはありがたい環境ではあったが、まだ小さい私はそんな現代のリアルな事情なんて推測すら不可能だ。
それよりも、れんげを使って口いっぱいに卵が広がっていく毎日を想像するのが楽しくて仕方がなかった。
舌の上でとろけていくその感覚は、頬を手で包みたくなる心地に揺られ、そのまま眠ってしまいそうになるほどだった。
そもそも税理士になるまでも難しいという認識がないまま進学していった。
ろくな勉強もせずに、サッカーと、高校から始めたバンド活動に没頭していたために、学力はクラスの中でビリだった。
だが、それでも大丈夫と過信していた自分がいた。
そう思えていたのは母の言葉に、ある意味忠実に従っていたから。
昔、大人になれば自然と結婚して、どこからともなく子どもを授かると想像していたものと近い。
未来がそうである、そうあるべきと盲信していたのだった。
父の出身校は、明治大学。
名前だけは聞いていたので、なんとなく父と同じ道を歩もうとする。
大して調べるわけもなく、進路指導の際に志望校を記すと担任から、
「菅原、お前の偏差値で大学行けるわけないやろ」
疑うことを知らなかった。
プロのサッカー選手になろうとして、駄目だったから税理士と考えていた。
当たり前のように入学して進んで行くのだろうと。
先生は、さも当然のように「冗談だろ?」とでも言いたげな表情をされ、私は愕然とした。
初めて突きつけられた現実。
スポーツは体感している。実力社会というのを小さいときから理解もしている。
成長するにつれ、ワールドカップで活躍するのが困難だと悟れば、諦めがつく。
それに、叶わなくてももう一つの手段があるから、と甘く捉えていたのだ。
これまで留年を免れようとしていた程度の学力だったのに、いきなり受験ともなれば頭の中はパニック状態。
勉強の仕方もわからず、基礎を学ぼうとして机に向かうものの、挫折する毎日。
たとえ問いの答えを見ても、なぜその回答になるのかを導き出す過程も理解不能だった。
刻一刻と時は過ぎ去るのに、一向に私は変わらない。
気付けば、凍てつく冷気が身を襲う季節となり、慣れない緊張感を抱きながら本番へと臨む。
合図とともに会場にいる全員が、一斉に問題用紙と戦う。
鉛筆を走らせ、紙をめくり、ライバルがわざとらしく咳き込む3つの音だけが響く。
誰よりも解くスピードが遅い。
焦り、もがき、混乱する。
時間が足りなくなっていく。
何の達成感も得られないまま、受験戦争を終える。
数日後、順次、合否結果を見に志望校へ行くが、どこに行っても私の番号はない。
壁一面に貼られたおびただしい量の数字に群がり、ある人は喜び、拳を握りしめ、ある人は悲しみ、俯いている。
私は後者だった。
私の存在だけが抜け落ちており、前後はしっかりと明記されていた。
結局、4校受けたが、全て不合格。誰でも入れるような、滑り止めのところですら、落ちた。
同級生は次々と進路が決まるが、一人、同じ道を歩めなかった。
──私は、落ちこぼれ。
悪気なく合格発表を高らかに宣言する人がいる教室の中、孤独を覚えた。
みんなが嬉々としているところへ混ざれないもどかしさが襲う。
大学は諦めざるを得なく、滑り込みで専門学校へ。
そうしたのは、負けたくなかったから。逃げることもできた。
高校を卒業するとき、クラスメートに向けて、
「将来、一番成功してやるからな」
と言い放つ。自分を追い込み、頂点を目指したいために。
高卒で就職をしたとなれば、進学していった彼らに勝てる要素は一つもなくなってしまう。
サラリーマンにはなりたくなかった。
誰よりも成功を掴みたかった。
誰よりも活躍したかった。
それには、知識を得るしかない。
だから、言われ続けていた税理士を否定せず、学んだ。
中退したことによって父と喧嘩した。
しかし、その環境から去るだけで、勉強は続ける。
それを勘違いし激昂されるうちに、大学受験の自分を思い出し涙が流れる。
それからは、塾に通いつつ、毎日のようにスタバで参考書を広げていた。
諦めるのは簡単だ。
でも、宿命に似た運命から、逃れようとは微塵も思わなかった。
*
29歳のとき、地元では最年少で資格を取得。
その分、試験にも10回挑んだ。ようやく、父と、母が望んだステージへ。
ただ、業界に入って私が描いていた理想と現実のギャップに驚愕した。
「あの会社、売上が全然いってないくせにこっちへの注文が多くて嫌気さしますわ」
先輩税理士が同業者に向かってそんな言葉を漏らしたのだ。
責務を果たそうとする考えが微塵も感じられない、上からの発言。
顧問契約をしていただいている立場なのに、クライアントをなぜ悪く言うのか、理解に苦しんだ。
一念発起して、事業を興す人がこの世にごまんといる。
それでも、10年生き残る企業はたったの1割。
多くの起業家は永続させるために取り組んでいるはずだが、厳しい現実を突きつけられ、泣く泣く閉じてしまっている。そのほとんどに顧問税理士がついているのに。
経営者は様々な悩みを抱えながら生きているが、特にお金の面は他者に相談しづらい。
彼らが本当の解決策として臨んでいるのは税務ではなく、経営だ。
事情を知っている士業にアドバイスを求めても、大抵の人にはノウハウがないから、救えずに潰れてしまっている。
そんな現実を知り、私がそのポジションになろうと思った。
殿様商売ではなくて、寄り添えられるような存在に。
志のきっかけは、先輩への反面教師だけではなかった。
「菅原さん、今こんな仕事をしているんですが、ちょっと資金的にも厳しくて、どうしたらいいですかね」
依頼があり、単発での相談を受けていたときだった。
聞いていくと、難しいビジネスモデルを組んでおり、資金調達を施したとしても、回収できる構造は正直見えなかった。変に気を遣って励まそうとするよりも現状を把握し、対策してほしいと願ってその旨を伝えた。
「そう──ですか。わかりました。ありがとうございます」
自信を持ってプレゼンしに来たのだろう。
何かアイディアを得られるんじゃないかと期待してきてくれたのだろう。
リスクを負って経営者になったからには成し遂げたい何かがあるのだろう。
でも、応えられるようなアドバイスはできなかった。
彼は俯き、口を閉じる。目の前に置かれた資料をいつまでも眺めている。
時々漏れるため息に、私は聞こえないふりをした。
その1ヶ月後、彼は自害した。
知人からその事実を聞き、言葉を失った。
何もしてあげられなかった自分。
もしその予兆を知っていたら──
今、ブラック企業や過度な残業、過労死に対して世間は厳しい目で見ている。
情報が拡散されやすくなり、寄ってたかっての口撃。
中にはその問題に乗っかることを楽しんでいる人もいる。
実際には世間が知らないだけで、中小企業で追い込まれ、自殺している人はたくさんいる。
それほどの悩みを抱えるときに支えられるのは、常に二人三脚している私たちだ。
ただ、本当に救えるのは、税務面だけではなく、経営のサポートもできるような体制でなければいけない。
父の事務所に属し、そんな経験を積んでいく中、永続する会社を作るには、社員教育が大事なのではないかと思慮するようになった。
社会も、多くの企業も「働くのが幸せ」という考え方になぜシフトさせないのか。
報道番組や新聞には、労働から逃げるのを推奨しているような気がしてならない。
経営者に限らず社員も伸び伸びできる場所を生み出さなければ、小さな不満や不安は少しずつ露呈し、人によっては命を落としかねない。
人は環境で変化する。
私が現職に就いたのも、その影響がとても大きい。
根本を変えていきたい。
だから、決心した。安泰の道、安定した収入を全て捨てて独立の道へ。
貯金1000万円全てをはたき、自分が成し遂げたい未来の実現のために。
そうすることで初めて見える景色が必ずあるはず。
殻を破ったその先を確かめたかった。
もう、携わった人が自害せざるを得ない状況を作りたくない。
それぞれ生きがいを持ってくれたら、きっと社会は新しく生まれ変わると信じている。
ただ教えるだけではなく自社で気付いてもらえるような取り組みを持って。
私は税理士。でも、脱、税理士を狙っている。
もはや資格もいらないとすら。
経営のサポートをしていく上で税務は、もちろん伝えなければならないが、権威を振りかざす必要は全くない。
会社を立ち上げて終わり、ではなく、存続させていくのがどこにおいても不変のビジョンのはず。
それにもかかわらず、起業の勉強を十分にすることなくスタートさせてしまう人がほとんどだ。
窮地に立たされたとき、一人で解決できれば問題ないが、大半はそうではない。
経営を学び、活かし、10年、50年、100年続く存在、世の中に認知してもらうために、私がいる。
仕事が喜び。
日本中の企業がそう思ってもらえるような改革をしなければならない。
それには、自分が今の業務を誰よりも努力し、楽しみ、社員にも伝えていく。
想いが共鳴すれば、伝播し、必ず広がっていくはずだ。
変えてみせる。
国税局が敵に回ろうが、脅迫電話がかかってこようが、そのときは仕方がない。
国を恐れて戦わなければ、経営者と対等に向き合えない。
顧問先が何よりも一番だから。
これが、私なりの戦い方。
モデル:菅原 由一
職業:税理士
あとがき:
菅原さんの活躍をFacebookで常に拝見していて、今回依頼をいただくまで、エリート街道を歩んでいたんだろうなと思っていた。実際にはむしろ真逆だったことに大変驚いた。
作中に出てきた負けず嫌いの根源のエピソードは、幼少期に遡る。
背丈は低く、運動神経もあまり良い方ではなかったそうだが、常にサッカーチームではトップクラスの実力者だったという。昔から人とは違う動きをやってやろうという意思が強かったとのこと。
それもあって、大人になってサラリーマンを目指さず、税理士になった。
高校を卒業してから約十年間勉強尽くしの生活がどれほど過酷な日々なのか、想像つかない。
でも、大学受験で失敗した経験があったからこそ、同じ過ちを繰り返したくない思いで、今があるのだろう。
話を聞いていく中で、習慣化の鬼、と社内から称されることがあるらしい(今回の取材は、菅原さんと私以外に、営業の方も含めたものだった)。
経営相談、情報発信、自身の健康のためなど、多岐にわたって目的を実現させるため、ただならない努力を積み重ねている。それを表に出さないからこそ、エリートと呼ばれるかもしれないが、裏では菅原さんなりの美学があった。
日本一の経営サポート会社を目指すビジョンも菅原さんの生き方が到達までの道筋をすでに表している。
なぜなら、どんな困難が待ち受けようともそれを跳ね除ける圧倒的な努力と仲間がいるから。
柔和な雰囲気の中には、鋼よりも固い意思が確かに存在していた。
それを取材できたことを誇りに思う。
ライフストーリー作家®︎ 築地 隆佑