牡蠣への恩返し
牡蠣と出会わなければ、今の私はいない。
そう断言できるほど、私は牡蠣に救われ、人生が変わった──。
時は、殻にこもるような生活を送り、他人を信用も信頼もできなかった。
人と会うことを拒絶し、たとえ誰かと対面しても本音は言わない。
人として愛し、良好な間柄になったとしても、いつかは裏切られる。そんな風にしか思えなかった。
寂しがり屋のくせに、強がっていた私は、いつの間にか自らの首を絞め、孤独感に苛まれていた。
でも唯一、閉ざした心を解き放ってくれたのが牡蠣。
少しだけ冷たく、柔らかい身を、吸うようにして口内へと運ぶ。
頬張った瞬間、口いっぱいに広がる豊潤な旨味。
いつまでも舌の上で踊らせたくなる感触が、噛むのを一瞬忘れさせる。
いや、噛みたくないという表現が適している。
コートを羽織い、身を縮こまりながら街頭を歩く季節。
身体を温める鍋も、おでんもシチューもいいけれど、私は牡蠣が一番好き。
初めて食べた日も手袋が必需品の時期。
熱気と笑いに包まれた夜の運命的な出会い。見たことのないその存在に釘付けになり、箸ですくう。
一口味わった途端、こんなに美味しいものがあるのかという衝撃。
まるで情交に燃えるような激しさ覚えたのを、私は決して忘れない。
*
当時、高校生の私にとって、学校という狭いコミュニティーに関心を示せなかった。
面白さや楽しさを見出せず、一人浮いていたのを自覚する。
多少なりとも友人はいたけれど、他の女子生徒とは違い、
坊主にしていた私。同性からも異性からも、怪訝そうにじろじろ見られていた。
仲間はずれにされていた訳でもなく、どの輪の中に馴染んでもいない。
そんな私の唯一の居場所とも言えたのが、渋谷のお笑い劇場。
とても心地よい空間だった。
吉本以外の芸人たちが集い、著名な人たちも数多く登場。
お笑いだけではなく、それぞれが自分を表現している姿を鑑賞するのも刺激的だった。
幼い頃抱いていた夢は、警察官。
昔視聴していたドラマの、女優が扮した役に憧れていた。
幼少期ゆえ、何の現実の厳しさも過酷さも知らなかった私は、ただただテレビの中で活躍する彼らに惹かれていた。
やがて、警察官よりも役者、表現者でありたいと思うようになっていた。
輝かしい芸能の世界。成長とともに、華やかな箇所だけではないことを理解するも、ふつふつと欲望は掻き立てら
れていく。
そんなことを考え、歳を重ねていくうちに出会ったお笑い。
言葉や表情だけで視聴者を笑わせる技術の高さ、素早く切り返すトーク力、間の取り方。
彼ら一流の存在をもっと近くで感じたい欲求に駆られ、足しげく通う。
次第に、私は別の快感を覚えていた。
それは、間欠泉が一気に吹き出すような爆笑の渦。
その瞬間、一体感が生まれるような感覚。年齢も、性別も、職業もバラバラな私たちが、一つのコンテンツに対し、同じ感性を持って共鳴できる空間が、楽しかった。
学校では文化祭や音楽祭など、みんなで共有できるものばかりだけれど、個々人の注力度合いは異なる。
やる気がある人もいれば、そうでない人もいる。
表面的な仲の良さはあっても、そこに本当の絆があるかの判断は難しい。
けれど、劇場には、それがあった。
お笑いで絆が生まれる。
世代を超えて、仲良くなれることが至福だった。
高校一年生の頃から毎日のように顔を出していると、
「祥子ちゃん、いつもありがとうね」
と、スタッフにも覚えられるようになっていた。
ある日、劇場の支配人から、思いもよらぬ相談を持ちかけられる。
「祥子ちゃん、もし時間あるなら、うちでバイトしてみない?今、人が足りなくて困ってるんだよね」
断る理由はなかった。
チケットのもぎりから、場内誘導、音響機器の扱いや照明を担当したり等、アルバイトの立場の割には幅広い業務
を教えてくれた。
そして、高校3年生の5月17日。
誕生日当日に、思い立って中退を決める。
自分の将来を考えたとき、留まっている必要性のなさを感じ、また、大学へ進学するよりも働きたい願望が強かっ
たためだ。
5月中に親の反対を押し切って退学。
同時に、家を出て行くことになった。
世間体を気にする両親は、高校に行かず、アルバイトをする娘を近くに置いておきたくなかったのだ。
18歳にして家を失った私は、寮が付いている警備会社で働くことになり、生活の基盤をそこに構えながら活動し
ていく。
また、かねてからの夢だった芸能事務所にも所属。
劇場でのアルバイトを含めた三つの仕事を掛け持ちし、日銭を稼ごうとするも、警備会社に関しては二日で退職。
昔から患っていた貧血が原因だった。
再度、家を失う恐怖を覚えたけれど、寮生の計らいで、新居が見つかるまで内緒で住ませてもらうことに。
劇場と芸能の仕事を両立させ、なんとか居住地も確保し、暮らしていたある冬の日。
とある芸人の単独ライブ公演が終了した夜。
彼らとスタッフ数名で、居酒屋で打ち上げをしていたときだった。
どこにでもあるような平凡なチェーン店。
なんの期待も、特別感もない中、出された食事の一つに、ふっくらと丸みを帯びた、ややグレーがかった白い個体があった。角ばった、不安定な殻の上に乗せられたそれは、初めて目にする牡蠣。
埼玉県生まれの私は、今まで海鮮系の料理をほとんど口にしたことがない。
名前は知っていたけれど、目にするのは初めて。
小ぶりながら、芸術的な美しい曲線を描いた瑞々しい表面を、箸でそっとなぞる。
今にも殻から落ちてしまいそうなほど、華奢な造形に見とれた。
殻の底を持ちながら一気に流し込む。
そのとき、ひんやりとした舌触りの良い海の幸が、私の瞳孔を開かせた。
口内の生暖かさのせいで冷たくなくなるのを恐れ、そのまま早く喉を通じて胃袋に収めたい。
けれど、まだこうして含んでいる状態にしておきたい。
葛藤。
結果、ゆっくり、ゆっくりと、甘噛みするように舌で撫でながら、溶かしていくようにして味わう。
最後の最後、まだ食べておきたい。そんな気持ちが残りながらも、堪えて飲み込む。
衝撃的な味、あまりの美味しさに言葉を失った。
ガヤついていた店内のはずなのに、余韻に浸っているその時間は無音とすら思えた。
初めての牡蠣を堪能し、帰宅後、私は即座にネットで調べると、世界かき学会の存在を知ることに。
見つけた直後すぐに会員登録。
また、日本オイスター協会にも属するようになり、一晩で虜になってからの行動は早かった。
各団体と関わるようになり、私は牡蠣を食するだけではなく、別の魅力も体感するようになる。
それは、お笑いと同じだった。
年齢も性別も職業もバラバラの人たちが、共通する牡蠣を中心に語り合い、盛り上がり、親身になっていく様。
美味しいものを美味しいと口々に言い、距離感は一気に縮まる。
学校では味わえなかった居心地の良さを、お笑いとは別の居場所を見出すようになっていた。
牡蠣の絆が、私を私らしくさせる。
そう強く思えたのは、芸能活動をしていた背景もあった。
21歳、私は殻に閉じこもっていた。
劇場でスタッフとして働き、並行していた仕事。
自分の存在を一人の表現者として認めてもらいたく、様々な依頼を受けていた。
雑誌のモデルや、キャンペーンガール、プロモーションビデオ、ドラマやCM等多岐にわたって活躍の場を広げて
いた。
ロケに行くこともあったため、その度に、オイスターバーを見つけ、一人で飲むことも。
また、現地で出会った異国の人たちとのコミュニケーションのきっかけが牡蠣になるときも。
有名人になるには程遠いけれど、好きな仕事をして、大好きなものを食べられる環境にいられることは幸せだった。
当時、恋もしていた。
私が所属しているところとは別の事務所のマネージャーの彼。
ただ、特殊な世界であるのは重々承知していたため、関係を持っていることを誰にも伝えずに隠していた。
1年ほど交際し、公私ともに順調だと思っていたある日、その事実が業界人に知られてしまい、無理やり別れさせられる結果に。
一般的な常識から大きく乖離している業界。
そこで縛られたルールや、私たちを切り裂いた大人たちに不信感や不安感を覚え、誰かを信頼し信用することを恐
れ、人を拒むようになってしまう。
仕事柄、人と会わなければならないけれど、本音を吐き出せない、吐き出したくもない。
いつか裏切られるかもしれないという猜疑心。
だけど、自分を偽り、演じている私自身にも嫌悪。
だから、オフのときはできるだけ一人でいようと心がけていた。
でも、本当は寂しい気持ちでいっぱいだった。
心のどこかで私は家族の愛情を求めていた。
半ば勢いで高校を中退し、親に言われるがまま出て行ってしまった。
本当は賛同してほしかった。
本当は一緒にいたかった。
そのくせ、時々両親から電話がくるけれど、強がって、信頼できないという言い訳を自分に言い聞かせて、出なか
ったりも。
そんな私を勇気づけて、元気付けてくれたものが唯一、牡蠣だった。
オイスター協会に属していると定期的な会合があり、みんなと触れ合う時間だけは、素の私でいられた。
どんなに苦しくても、つらくても、寂しくても、牡蠣と、その仲間たちが私の支えになっていた。
やがて好きが高じて、牡蠣の生産過程も気になり始める。
ツテを辿り、生産者の元へ足を運び、牡蠣に対する想いに触れた。
初代も、二代目も、三代目も、それぞれの土地で各職人が、品質の良い牡蠣を生み、多くの人に食べてもらいたい
という熱い気持ちに心が震えた。
あるとき、仲間からオイスター検定の上級コースを勧められた。
牡蠣の開け方、また、牡蠣にまつわる知識を得て取れる資格。
難儀せず取得できた私は、偏愛とも呼べる牡蠣への愛なしでは生きられない人生、そして牡蠣とともに生きていくのだなと悟った。
人と接することに対して、抵抗感が薄れた頃、牡蠣パーティーを開くことになった。
芸能活動だけで生計を立てていく難しさを覚え、せっかくならば、牡蠣好きの想いを、もっと広げていこうという
考えに至っていた。
レストランを貸切り、牡蠣を好む人たちを集める会を開催。
初めての企画だったけれど、たくさんの生産者の協力があり、当日を迎えられた。
黒ビールと、白ワイン、テキーラに合う、様々な産地から仕入れた選りすぐりの牡蠣たち。
参加者たちは一斉に、それぞれを吟味し、口に頬張った瞬間、感想を言えないほどの高揚感に包まれている。
彼らの笑顔を見ていると、私は安心した。
かつては、お笑い劇場に足を運び、私が参加者だった。
次第に、スタッフとして入り、来場者をもてなす側になった。
それと同じように、牡蠣を堪能する側から、牡蠣を提供し、喜びや幸せを届ける立場に立つようになった。
どちらも、これまでベクトルは自分に向いていたけれど、第三者が喜ぶ姿を見ること自体が私自身の生きがいだと感じられた。
まだ若かったあの時代と、今がリンクしていることを自覚すると、感慨深い。
ある日、パーティーを開催していた会場のオーナーから、麻布十番で店を持ってみないか、という提案を受ける。
店舗を構えているものの、集客が見込めず、半ば閉鎖状態。
そこで週末だけでも店頭に立ってみないかと相談される。
願ってもいない話に、私は舞い上がった。
最初、オーナーに企画の承諾を得ることすら困難だったけれど、幾度ない説得、実際の集客人数、リピート率の高
さを評価してもらった結果。私は心の中で思い切りガッツポーズした。
縁あって私ともう2人、計3人による共同代表という形でオープン。
牡蠣と出会って、生産者の想いを聞き、店舗を構えて、本格的に提供側に回った。
数年前、こんな風になるなんて微塵も想像していなかった。
好きを突き詰めたとき、人と人との繋がりが広がり、環境も変わっていった。
立場も役職も何も関係ない。みんな、肩を並べて食事する。
参加者の中には、経営者、伝統芸能家、大手企業の社長や役員、医者等、本当に多岐にわたる人たちと触れ合っ
てきた。
役者以上の楽しさを見出せたとき、私は牡蠣を自らの身体を使って文字通り表現したいと思うまでになっていた。
全身の血がオイスターで埋め尽くされていると言えるほど大好きな牡蠣を、世の中へ浸透させていきたい。
苦手な人こそ、私が提供する牡蠣を食べて欲しい。きっと概念は変わるはずだから。
想いはさらなる高みへ目指すようになり、私は共同代表で立っていた店舗を1年ほどで退き、2013年に銀座に
店舗をオープン。
牡蠣を愛する私が、これからできること。そして、これからやるべきことは。
*
牡蠣を通じて、世界平和をする。
牡蠣には海をろ過する力がある。
牡蠣を食べ続けるためには、海を健康に保たなければならない。
ずいぶん前から、環境汚染が騒がれているものの、具体的な策が見つからないまま、私たちは現代を生きている。
もちろん、気にしている人はいるだろうけれど、規模が大きすぎて、自分ごととして捉えている人はそう多くはな
い。
けれど、このままの状態でいると、縄文時代から食べ続けられている牡蠣を、食せなくなってしまう。
いつか、気づかぬうちに生産できなくなる世の中になってしまえば、生産者はもちろん、私のように大好きな人た
ちの楽しみや喜びを奪ってしまう。
だから、美味しさや可能性を毎日のように伝えていかなければいけない。
これから途方もなく続く未来に、牡蠣の文化を残すには、私自身が広告塔になり、地位向上を図る努力をする。
そのために必要な行動は食育。
幼い頃から、海の健康状態を維持する大事さを、これからの日本、世界を担う子供たちに知ってもらうこと。
彼らの中で、いつか、生産者になりたいと願う人たちが出てくれば、私がこの世に生きたという証になる。
とはいえ、私の想いが教育カリキュラムに導入されることは困難。
それでも、私は諦めない。
一人、また一人、牡蠣が好きだ、と言ってくれる人が増えれば、もっと海や、世界、地球のことを考えてくれる。
中には、牡蠣を嫌悪する人たちもいる。
でも、私が誇りを持って提供する牡蠣を、小さい頃に味わってくれれば、絶対に喜んでもらえる自信がある。
牡蠣に対して距離を取っている大人たちも、もう一度私を信じて食べてみてほしい。
きっと必ず感動させられるから。
私は、誰よりも牡蠣が好きで、伝えられる自負がある。
私は表現者。
私の存在が、言葉を持たぬ彼らの代弁者になれるなら、どんなことでも厭わない。
私は牡蠣の素晴らしさや偉大さを継承していく。
まだまだチャンスはある。
私が伝え続ける限り、生産者の想いも途切れさせない。
私は牡蠣を愛し、愛され、これまで生きて、これからもずっと共にしていく。
助けられ、人生を変えてくれた牡蠣。
だから今度は、牡蠣に恩返しをしたい。
それが、私の役割だから。
*
モデル:泉祥子
職業:オイスターマイスター
あとがき:
生涯どれくらい食べたかを聞いてみたところ、牡蠣と出会ってから通算約8万個を越え、1日平均15個で、最高
は78個だという。驚異的な数字で、開いた口が塞がらなかった。
これほどまでに何かに没頭し、愛し、人生を変えたと言えるものを持つ人は世の中にどれくらいいるだろうか。
人にはそれぞれ好物が何かしらあるだろうが、好きになったきっかけは、単純に美味しかったから、というものが
ほとんどだろう。
もちろん、泉さんに関しても最初はそうだったはず。
だが、牡蠣を通じての出会い、塞ぎ込んでいた時期を救ってくれたもの、生産者たちの想いに触れることによって
どんどんその気持ちは強くなっていく。
だからこそ、彼女の存在をもっと多くの人たちに認知してもらいたいと願う。
著者の私も牡蠣が好きであり、なんの抵抗感もないが、本文にも記したように、嫌悪する人は周りにも多い。
でも、彼女の想いを、嫌いな人にこそ伝えて、改めて勇気を持って食べてもらいたいと思うようになった。
泉さんが提供するものを信じ、信用し、一度口に運んでほしい。
その感動に包まれたとき、きっと牡蠣も、海や地球のことも考え直してくれるだろう。
泉さんは、生産者の想いを、牡蠣への愛を汲み、人々に伝えていく表現者であり、伝道者。
牡蠣で世界平和。
人によっては、何を言っているんだと揶揄するかもしれないが、近い将来、泉祥子という名が世界に轟く日もそう
遠くはないと感じさせられるインタビューだった。
ライフストーリー作家®築地隆佑