LifeStory

築地隆佑 | 逃げ続けた人生にピリオドを

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築地隆佑 | 逃げ続けた人生にピリオドを

 

【逃げ続けた人生にピリオドを】

未だに覚えている、暴力を受け続けた日。
未だに覚えている、母が死んだあのとき。
二度と戻りたくない、でも確かに変わった高校生活を思い返すと、今の原点を改めて気付かされる──

2016年11月、喫茶店でノートを広げながら、生い立ちを振り返る。人生の棚卸し。

休日の割に人は少なく、店内で流れるビートルズがBGMとしてではなく、まるでその曲を聴きに来ているようだと錯覚する。エアコンから発せられる微風で、机の上に置かれたコーヒーの湯気が不規則に揺らいでいる。

走り書きした、私のエピソードひとつひとつを眺める。
自分にとって何が強みで、何が弱みで、何が好きで、何が嫌いなのかを整理する。
マルで囲ったり、太線にしてみたり、バツ印をつけたり。まだ始めたてのパズルのように歴史が散らばっている。

動き出さなければいけない、負けていられない。

そう思わせてくれたのが数日前に会った二人の友人。
それぞれやりたいことを見つけ、追いかけ、結果を出している個人事業主。

酒を飲みながら談話していると、何者でもない今の自分にひどく苛立った。
叶えたい夢はあったものの、歯がゆい毎日を過ごしていた。

彼らの話を聞いて、自身を見つめ直そうと思い立ち、心の中を探る。
過去の全てが美化されているわけではないため、書き出して、そのときの心情が蘇れば時々苦しくなる。

それでも、あの出来事があって、こうして生きている。

耳に優しく入ってくる心地の良い音楽が妙に感傷的にさせ、ぼやけた、色あせた昔日が躍動するように私の記憶の引き出しを開ける。

美大を卒業した両親の元に生まれた私は、幼い頃から美術館や博物館に連れ回され、ごく自然と、芸術に傾倒していた。絵を描いたり、絵画鑑賞を好み、創作は日常と隣り合わせだった。

また、運動も好きだったために、小学校1年生からは、水泳とサッカーに没頭していた。
ただ、サッカーは小学校4年生で辞めた。

自分のミスひとつで、チームが負ける経験を何度も味わい、遠慮を知らない同級生らは私を責めた。罵詈雑言を浴びさせられ、それに反抗もできず、私は自信を喪失した。自らの意思を伝えることを恐れ、誰かの意見に従うような、個性のない人間に成り下がる。

団体競技から退き、同時期に始めた水泳は続けていた。個人競技ならば、すべては自分の責任。うまくいかなくても、気持ちは軽かった。

小学校高学年になってから選手育成コースへの推薦をもらい、本格的にのめり込んでいく。だが、過酷な練習に嫌気がさし、スイミングスクールに通っている振りをして地元をふらつく日々も増えていった。苦しいことや、つらいことから逃げ出す癖がいつの間にか芽生えていた。

それは中学受験のときもそうだった。

大して勉強もできないのに突然決心する。塾に通わせてもらったが、意気込みはすぐに沈下。単なる思いつきで行動するも、早い段階で飽きてしまい、本気になったのは本番1週間前。学校のテストですら誇れる点数を取っていないのに、基礎も理解していないまま臨んだ結果は自明の理だった。

結局公立の中学へ進み、新たな環境を楽しもうとする。
しかし、その期待はあえなく潰え、いじめを受けるようになった。

ニキビが顔面を覆い尽くし、歯列矯正もしていたため、人前で笑って話せなかった。自信の無さはいつまでも尾を引いて、人見知りになり、標的にされた。それに当時身長140センチしかなく、小馬鹿にされる毎日。

ドラマで見るような過度なものではなくても、学校へ行くことも時々ためらうようになる。

休みはしなかったが、なるべく目立たないように、加害者側と接しないようにひっそりと身を隠すような生活。授業が終われば、真っ先に帰宅してテレビゲーム三昧。

自分からも、人からも逃げるような3年間。妄想では、まるでヒーローのように力をつけて立ち向かう姿を描いたが、実現させる勇気は微塵もなかった。

だからこそ、高校は変わろうという気持ちに駆り立てられる。
いじめられていた事実を抹消、そして対人関係を克服しようと、誰も知らないところを受験した。
華々しい舞台となるはずの入学式を終えたその夜。

インフルエンザに罹った。

ガラの悪い人たちもいれば、そうでない人たちもいる中なんとかやっていこう、もう同じような経験はしたくないと思った矢先の発症に、布団の中で自分の運命を呪った。
1週間後、初登校。教室の扉を開けた瞬間、視線が集まった。

「誰だ、お前?」

当然だった。名前もわからない何者かに言われ、その言葉の圧力に萎縮する。朝なのに一瞬、不気味なほど静まり返った部屋で、中学のとき起こった出来事がフラッシュバックする。

約40人、狭い空間に閉じ込められたクラスメートは、それぞれ当たり前のように輪ができている。
席についても一人も声をかけてこない。孤独に耐えられなくなり、イヤホンで耳を塞ぎ、音楽の世界に浸る。机にうつ伏せながら、時を過ぎるのを待った。始業までの数分間がやけに長く感じた。

無言に徹した数時間が過ぎ、授業の合間は寝たふりをする。すると、私の周りに人が寄ってきた気配がして、顔を上げる。体格のいい、決して穏やかな顔つきをしていない連中が囲っていた。

私はそのとき、察した。

──ああ、もう逃げられない。

体育のときは、ボールを顔面に当てられ、終わった後は集団リンチ。トイレに行き個室に連れ込まれては殴られ、水をかけられる。持参した弁当箱はゴミのように捨てられ、肩パンと称した過度な暴力。

力なき私は言われるがまま、傷が毎日のように増えていった。身体的にも、精神的にも。
誰とも口を利かない日は続き、昼休みは孤立を隠すように図書室へ駆け込んだ。

授業参観が行われたある日、母が来た。

自信のない私は昔から挙手して発言するタイプではなかったため、おとなしく、周囲に怯えながら受けていた。帰宅して、母が言った。

「隆佑、あんまり楽しそうじゃないね」

拳を食らうよりも、痛かった。
親が来ているときに何かが起こったわけでもないのに、心情を見抜いたそのセリフに私は沈黙を貫くしかなかった。

中学のとき、初めて執筆した短編小説を生き生きと見せた私の表情を知っているからこそ、苦しかった。

小説を書くようになったのは14歳。

ネットでゲームの攻略情報を閲覧していると、あるページのリンク先に小説投稿サイトを見つけた。プレイしていたゲームの二次創作を、不特定多数の人たちが書いている掲示板のような存在。もともと活字自体好きではなく、本を読まないのに、なぜか私はその文章に魅了され、同じように表現したいと思うようになっていた。

夢中になって、書き連ねていると気付けば1年が経ち、そこでは誰よりも評価される立場となった。いじめられていたストレスの解消を、私は創作を通じて昇華していた。

物書きに面白みを見出してからは、オリジナルの短編小説を作り、両親に読んでもらった。

「すごい良いものだから、もっとやってほしい」

二人に背中を押され、読書をするようになった。図書室へ逃げ込む日々ではあったものの、学校は絶対に欠席しなかった。公欠(インフルエンザも含め)を除いて小学校4年生以降、皆勤。

一つの意地でもあり、小さなプライドだった。どんなことがあろうとも、始業30分前に登校していた。もし休んだら加害者のあざ笑う光景が目に見えている。また、長年継続した自分の功績を保つために必死だった。

たとえ友人がいなくても、本があれば救われる。新しい言葉が、いつか別の形で表現できると信じていたから。それに、母の残念がったあの顔を、二度と見たくない思いもあって、通い続けていた。

しかし、高校2年生の8月8日、母は死んだ。46歳、子宮体癌。病気発覚から半年後、他界した。進級すると、加害者たちはみんな単位を取れず退学し、平穏な生活を送れていた矢先だった。

これまで受けていた痛みを凌駕する苦しみに悩まされた。

玄関のドアを開ければ「おかえり」と言われる、普通の日常が奪われた。いつも聞こえていた声、夕食の支度の音、スリッパで床を蹴るこすれ、ざわついたテレビ。鍵を持って、無の空間に立ち入る様は、まるで他人の家に入るような感覚に陥った。

2学期を迎えたあるとき、国語を担当する先生と話す機会があった。

「お母さんが亡くなってしまった経緯を、文章にしてみなさい」

小説を書くのが好きだとは以前から伝えており、また、葬式にも来てくれた経緯から、与えられた課題。眠れない毎日、どうすれば心が軽くなるのかを模索していた中での一言だった。
書き出そうとすると、つい先日起こったことが蘇る。

日に日に母の毛は抜け、まるで骸骨のように変わりゆく姿。巻きつけられた管。痩せ細り、歩行すらままならない。呼吸も困難に。逝く瞬間、叫んだ父の声が反芻し、頭を抱えた。何度も、何度も。

──聞きたくない、思い出したくない。

8月8日の深夜0時10分、私たち家族は人間の声かと疑うくらい、そして喉が潰れるほど、母を呼び続けた。返事は、もう、なかった。

涙が際限なく溢れ、赤子のように泣き喚く。身体中にある水分が全て枯れてしまうのではないかと思うくらいに。母が死ぬまでの半年間が、これまでの人生において最も重く、長く、それを文字にする苦痛が私を襲い、筆はほとんど進まなかった。

それでも、書かなければいけない、残さなければいけない、決して忘れてはならない。心の機微や、ことの細部まで。私は何かに取り憑かれたように、キーボードを叩く。
原稿用紙で換算すれば30枚。初めて書ききったその量を先生に見せ、すぐに返答をくれた。

「この作品はたくさんの人に読んでもらう必要があるから、載せさせてくれないか」

提案してくれたのは、毎年年度末に発行している校内誌のようなもの。私は即答で、断った。公表するために作ったものではない。私は掲載を拒んだが、何度も説得され、頑なな意思に根負けし、承諾する。傷は癒えないまま季節は移ろい、3学期の終業式を迎える。

冊子が配られ、その中には母を綴ったノンフィクション小説が載っていた。手に取ると、不思議な感覚を覚えた。

高校3年生になり、戸惑うほどの反響があった。事情を知る人からはもちろん、名前もわからない後輩や、先輩の親御さんからたくさんの感想をもらった。

「大変な思いをされたんですね」
「涙して読みました」

一心不乱に書きなぐった表現を、そう言ってくれた人たちが大勢いたことに驚きを隠せなかった。

書いたものが、初めて人の琴線に触れる体験。今まではネットの世界か、両親にしか見せていなかったが、他人へ形として届けられた事実が何よりも喜びで、恍惚感に耽っていた。

そのときふと、自分の将来の夢を「小説家」という職業に導いてくれた。文章を書く仕事で一生食べていきたい、と思えた17歳の春だった。

以降、突然アイディアが浮かび、受験勉強そっちのけで100枚越えの作品を半年で2本執筆。

そもそも小説家のなり方は、出版社が企画している新人賞に応募し、受賞するしか手段はない。二つとも早速提出したものの結果はあえなく落選。でも、負けたくはなかった。
自分が表現したいことを、心からやりたいと思える創作に、私は睡眠時間を削るほどのめり込んでいく。

ただ、それに力を注ぎすぎて、大学受験は失敗。
浪人し、1年越しで大学生になる直前、今度こそ今までとは全く違う自分になろうと思い立つ。

人見知りせず、積極的に声をかけ、友達を増やしていく。ダンスサークルに属し、一人旅を通じて世界遺産巡りや、二輪免許の取得、カメラを始めたり、など。生きる全てが小説のネタになると考え、とにかく多動していった。

それでも、根本的な性格は変われなかった。
自信のない私は誰にも未来を語らなかった。
馬鹿にされる、嘲笑われるのではないかと。

夢見てんじゃねえよ──と言われたこともないのに、そんな返答を恐れ、一人で怯えていたのだ。
野心を隠しながらも、様々な経験を積み、本を読んでは、いつかいつかを望む。

時は流れ、大学4年生の9月。

「俺、起業するんだけど、よかったら一緒にやらない?」

就活中に受けた企業で知り合った人からの突然の連絡。その会社では、面接の代わりに5日間のインターンを経て、評価される。そのとき担当してくれた上司だった。

設立数日のベンチャー企業に携わるようになった。
当然、家族や親戚、友人は大反対。
だが、小説家を志す気持ちに陰りはなかった。

人と違う人生を歩まなければ、きっと面白い物語は書けないという思いと、好奇心が私を突き動かす。
残業や有給休暇の概念のない中働きながら、私は秘密にしつつも、諦めなかった。

あるとき、大学時代の後輩が夢を実現させたことを知った。
向上心も向学心もあり、叶えるために必死に努力し、想いを伝えていた。何度も挫けては、挑み、追い続けていた。

やがて、彼は数年越しに栄光を手にする。
その姿を間近で見たとき、心の底から格好良いな、という尊敬の念を抱いた。

私はずっと逃げてきた。言い訳をし続けてきた。自信のない自分と向き合うのが怖かっただけだった。
彼の影響を受け、夢を覚悟に変えるべきだと、SNSで初めて小説家になりたいと公言する。

それから溜まった膿を吐き出すかのごとく自分を発信していった。

それでも、結局新人賞に応募し続けるしか、道は拓かれない。
腹をくくって挑戦するも、本当にこのままでいいのか不安が過ぎる。受賞基準がわからず5年、10年、20年、歳月を重ねて芽が開かなかったとき、どうなるのか──

そんな、わだかまりを抱えた、何者にもなれないときに出会ったのが、2人の個人事業主だった。

思い返しながら、整理をしていくと、私の強みは何かを見い出せた。

新卒で入社した会社は、経営者を相手にコンサルティングサービスを展開しており、その一環で、平日毎日異業種交流会の企画運営をしていた。私はその責任者を担い、開催数1600回を超え、述べ3万人と会ってきた。それにただの名刺交換会ではなく、参加者は着席し各々がプレゼンをしあい、私はアシストや他己紹介を毎日数十回行なった。

現場には理念や想いを持った事業主が集まっている。

人には、物語がある。

人には、過去が存在するからこそ今があり、社会的なリスクを負ってまで成し遂げたいことがあるから、起業したというストーリーが。

それなのに、定型文のような、営業トークしかしていない光景を見る。表面的な説明ばかり。消費者は購入する理由を探している。

安いものや高クオリティのものなど、選択基準は人によって様々だ。だが、この世に商品は溢れかえり、みんな差別化を図っている。価格競争すれば利益率は下がり、売上的には苦しくなる。

では、値段を下げず選んでもらうためには──
それは、売る人の仕事に対する熱意や志ではないか。

彼ら一人ひとりには、まるで一冊の本のような背景があるのに、言語化されていない。今の事業に至った過程を文字通り小説のように発信できれば、見込み客はその人から買うきっかけとなり、既存顧客がファン化すれば、成果は変わってくるのではないか。

頭の中で複雑に並べられたパズルが一致した瞬間だった。
私だけができる、新しい小説家としての形を体現したい。
その想いに亡き母の姿が重なり、私は踏み出していた。

自分の言葉で人の心を動かしたい。
母の死があったから、今の私がある。
もう、逃げはしない。
ようやく自信を持てるから。

私は書き続ける。

大好きな、人生を変えた小説が、新しい文化、新しい広告として価値を得て、小説家の異端児と称されるよう、上り詰めていく。
日本中に、世界中に、広めていく。たとえどんな困難な道があろうとも、もう言い訳はしない。

あの日、2007年に将来を決めた。
そして、2017年株式会社ライフストーリー設立。

ライフストーリー作家として、10年越しの夢を叶えて、私は今を、生きる。

 

モデル:築地 隆佑

職業:ライフストーリー作家®︎

 

あとがき:

 

自信のなかった私を強くさせたのは、いじめだった。
ずっと見返したい気持ちが強く、いつかあいつらをギャフンと言わせたい。そんな思いが常に根底にあった。
加害者側の彼らはきっとそんな事実すら覚えていないだろうが、描写したように、私の記憶の中には残っている。だからこそ、何かを成し遂げて、人とは違う人生を生きて、デカくなってやる。

という確固たる意志が、ここまで成長させてくれた。
大学以降に出会った人たちはこれまでの内容を読んだとき、きっと驚くに違いない。過去の自分を晒したくはなかったし、その当時はまだ自分を受け入れていなかったから。

だが、もう違う。

この活動をし始めて体感したのは、今、人生で一番楽しい時間を過ごさせてもらっていること。
毎日のように、志のある経営者と会い、約五時間の取材を経れば、どんどん新しい価値観が生まれ、考え方も変わってくる。

お金を得ながら話を聞けて、自分の好きな表現方法で仕事ができて、人によっては涙を流し、しかもそれが広告にもなり、不特定多数の人の目に触れてもらえる可能性を秘めている。

私がこの仕事にかける想いを、カッコ悪いこともすべて開示して伝えていきたい。
もっともっと広げるために。
あなただけのライフストーリーが生きる志になる表現を、生み出していく。

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