幸福のカギ
いつの日からだろう。線香の匂いを不快に思わなくなったのは。
墓石を前に、私は妻とともに手を合わせ祈る。
──父さん、この業界に身を置いてから、もうすぐ10年が経ちます。
40歳の若さで父はこの世を去った。
死因は心臓発作。
少年野球の試合が終わり、意気揚々と帰路を辿っていた日。
汚れて汗ばんだユニフォームを早く脱ぎたい気分だった。
当時10歳。日常の9割が楽しいことだらけで時々つらいのは勉強くらい。
今日の晩御飯を想像しながら帰宅し、玄関を上がると、「ただいま」と言い終えるよりも前に母が駆け寄ってきた。
「……落ち着いてよく聞いて」
屈んだ母が私の肩を少し乱暴に掴み、そう言ってきた。
ただ事でない何かが香川家を襲っているのを瞬時に察する。
「お父さんがね、亡くなっちゃったの」
母が苦しそうに、涙を堪え、抱きしめながら告げた。
死については、授業か、テレビドラマで扱われるものしか認識していなかった。
私にとって、その言葉に宿る意味や重さをはっきりと受け取れていなかった。
父がいない現実を把握するよりも前に、試合後の疲れによって空腹を覚えた私は、不気味なほど冷静に遅めの夕食をとる。その間、母は鳴り止まない電話対応に慌てふためいていた。
「これから家族で頑張っていこうね」
寝室へと移る私の姿を見て、母は言葉を洩らす。
疲労と、満腹感による眠気から、すぐ夢の世界へと誘われた。
目が醒めると、外はどんよりとした雨雲が広がりポツポツと窓に水滴がついていた。
きっと今日の朝練は中止だ。そんな風に眺め、ひんやりと冷たいガラスに手を触れる。
今後一生、父と話せないこと、一緒に野球ができないことを改めて理解すると、突然涙が止まらなくなった。
感情が高ぶるのと同時に、雨音は激しさを増し、生まれたての赤子のように泣き喚いた。
外の音に吸収されるくらい叫んでも、私の声の方が大きかった。
もう、お父さんと会えない。
もう、お父さんと遊べない。
もう、お父さんは、いない。
父が東京ドームに連れて行ってくれて、初めて観戦した試合で原辰徳選手がホームランを打ったのを目の当たりにし野球の虜になった。当時8歳の自分に楽しさを教えてくれた父は、成長した私を褒めてくれることはもう、ない。
外界を断つように布団に潜り込んで、また泣いた。
その日からしばらくは、自宅に親戚たちがひっきりなしに足を運んできた。
いつも元気だった叔父や叔母は、墨汁を染み込ませたような衣服に身を包み、香川家を訪れる。
大人たちがこんなにも沈んでいる表情を見るのは、初めてだった。母は一人、慌ただしく対応する。
そんな母をよそに、私は父が他界しても天候が良ければ練習に行く日々。
土日も朝から夕方まで取り組んでいた。
同じチームの友達や監督は気を遣ってくれていたが、妙に冷静な自分がいた。
学校では学級委員を務め、チームではキャプテンという立場でもあったため、弱いところを開示しないよう無意識的に振舞っていたのかもしれない。
まとめなければいけない、統率をとらなければいけない、そんな役職に就いていたからかどうかはわからない。
他人事のような感覚も時々覚えたり、でも現実なんだと受け入れたりと、軸の定まらないコンパスのように揺れていた。
試合中、チームメイトが打席に立ち、まっすぐ弧を描くように伸びた打球を見ても、昔のような感動は湧かない。バットに当てたときに響く金属音が、胸を打つこともなくなっていた。
年が明けた頃、事態は急変する。
穏やかだった波が思いもよらぬ台風の来襲により、荒波と化したような出来事。
葬儀を終え、四十九日も過ぎて一旦落ち着いたある日、自宅の固定電話に着信があった。
母が受話器を取り、しばらくすると声を荒げている様子がわかった。
当時の私は、母が口にする単語が何を指すか理解できずにいた。
ただ、何か揉め事が起きている事実だけは認識できた。通話が長引けばその分、声高になっていたから。
親戚同士で集まるときが特に顕著だった。
まだ私が幼く、言葉の本当の意味がわからないのをいいことに、悪口を洩らしていた。
とはいえ、10歳の自分でも大人たちの言動に悪意があるかそうでないかの判断くらいはついていた。
信頼しあう間柄が家族であると認知していたため、彼らの発言には嫌悪感を抱くようになる。
母は身内から口撃され、疲弊しきっていた。
ため息をつく回数も日に日に増えており、彼女一人で自身を支えるには、あまりにも不安定なほど苛まれているのが窺えた。私と、4つ下の妹にはそういう姿を悟らせないよう努力していただろう。
それでも、肌や髪が疲労によって侵食されているのが垣間見えたとき、私は黙していた。
別のある日、来訪者が現れた。母は手が外せなかったため、私が代わりに玄関で応対する。
「こんにちは。久しぶりだね」
ちょうど学校の先生と同い年くらいの中年女性が家を訪れ、彼女の視界に私が入るなり言ってきた。曖昧な過去を辿りながら、たどたどしく挨拶をすると、
「まあ覚えてないか。君のお父さんのお姉ちゃんだよ」
ぼうっと、顔を眺めてもあまりピンとこなかった。
葬式には来ていたかもしれないが、数百人単位の人間が参列していたため記憶に定着していなかった。
「お母さんいる?」
奥にいる母に向かって、私は呼んだ。
「ありがとうね」
まだ何も許可が出ていないのに、踏み入れられる。
私には微塵も感じさせなかった横柄さが、ここぞとばかりに表れ、母の元に詰め寄った。
その場には留まらず席を外していたが、耳は澄ませていた。
すると、だんだんその人の声は荒げ、「お金・遺産・相続」という単語が飛び交っていた。
何度も同じ発言を聞いてしまっていたから、最初は意味がわからなくても、把握するまでにそう時間はかからなかった。
要因となったのは、父が土地を所有し、不動産を持っていたからだった。
また、亡くなったことによって大金が母の手元に入ってきたのも重なった。
父がこの世から去って日も浅いのに、どうして大人たちはお金についてこんなにも争うのか、疑問でしかなかった。
一つ、理解できたのは、死があらゆる意味で人の感情を動かしてしまう事実。
悲しみだけではなく、人間の欲望が渦巻くことを──。
もちろん、当時はそんな大人びた感想を抱かなかった。
ライフプランナーとして活動するようになり、あらゆる知識と経験を積み、多くの家庭を見てきたからこそだった。
みんな大好きだった私の父。
それなのに、望まない形で家族が困惑する日々が苦しかった。
ただ、父が亡くなってしまい、そういう現実を味わえたから、本職に出会え、10年近く続けているのも確か。
きっと父が生きていたらこの仕事に就いていなかった。
それに、楽しいと思うことも──。
墓石の前で手を合わせる。
私は、彼に似た男に成長しているだろうか。あの日からずいぶんと時が経った。
空を見上げると、悲しみで泣いた大雨の日とは打って変わった晴天。
「良い天気だね」
隣で一緒に宙を仰ぐ妻が、お腹をさすりながら言った。
*
「香川さん、本当にありがとうございます」
紹介でお会いしたご夫婦から懇切丁寧な謝辞を受け取り、私は肩を撫で下ろす。
──これでもう大丈夫。この2人が将来相続で揉めることはない。
これから歩んでいく人生、色々と想像していない未来が待っている。
時に2人や身内との間柄に亀裂が走る出来事も。
それを防ぐ一つの手段として保険があるが、それだけでは賄えない部分もある。
だからせめて対策可能な、私のスキルで手助けできることを、ステージが変わったタイミングごとで見直す。
「香川さんなら安心して任せられるわ」
奥様がホッとした様子で旦那様の顔を一瞥し、笑みを浮かべる。
もう、私のような体験をしてほしくない。全世帯主とは言わずとも、私が携われる限りは。
その想いがお客様に通じて、安心を届けられるのは純粋な喜びである。
とはいえ、ここまで来るのに決して平坦な道ではなかった。
プルデンシャル生命に入社後一年間は、会社から課された目標に対して大きく下回っていた。
フルコミッション制のため、給与もなく、辞めなければ生活できないくらいまでに。
ただ、それでも、数年前のどん底だった9ヶ月間に比べれば、なんてことなかった。
あの日々があったからこそ、続けられる。
1日、50錠もの睡眠薬を飲み、救急車で運ばれるような生活。
自分をコントロールすることが不可能だったあの数ヶ月は、地獄だった。
当時を思えば、だが、あのときはそんな風にすら思えていなかった。
毎日が昼夜逆転。テレビを見るのも恐ろしかった。
バラエティ番組で馴染みの芸人がネタをやっている光景に吐き気を覚えるほど。
何が楽しいのか、何が面白いのか理解不能だった。
家の窓ガラスを割り、親に止められ、近隣住民からは心配され警察沙汰寸前になるほどの騒ぎ。
そうなってしまった原因は、1人の女性。
25歳のとき、一回目の結婚をした人がいた。
付き合い、その延長線で妊娠が発覚。
自然と婚約という形になり、当日までの準備や段取りに追われるようになっていた。
しかし、その段階の最中、相手の両親に呼ばれ告げられた一言があった。
娘は、養女である、と。
同い年の彼女への、25年噤まれていた秘密。
私が聞いて間もなくして、彼女にも知らされる。
親だと信じていた、普通疑うことのない事実に、彼女は受け入れられず、正常でいられなくなる。
やがて、彼女の心は塞ぎ込み、うつ病となってしまう。
さらには、私の断りなく胎児を堕してしまい、結婚も取り止めたいと意地を張り出した。
まるでエンジンが破壊された暴走列車のように、すべてを無視して突っ走るその様子に、全く介入できなかった。
すでに入籍していたため、バツが付くのは仕方ないとしても、命を奪ってしまうことや、愛しいと思っていた彼女が壊れていく姿を見ていると、私まで心が疲弊してしまう。
当時、体育会系の不動産会社の営業マンとして3年間勤めているときだった。
50人ほどいる中のトップを勝ち取り、順調に好成績を叩き出していた。
父が所有していた不動産があったゆえに、揉めてしまった相続問題。
根本的な原因を知り、解決策を学ぶために入社した。
しかし、彼女とは別れを決断せざるを得ない状態へと陥り、私はどんどん仕事に身が入らなくなっていく。
次第に身体的にも影響が出始める。他人から見てもわかるほど、痩せ細っていく。
何かわからない病気に、侵食されていくような感覚。
彼女や家族とは話し合いだけで済めばまだしも、いつしか裁判沙汰までに話は膨れ上がった。
ただでさえ忙しい業務に加えて、あれこれと考えなければいけないことがあまりにも多すぎた。
精神的疲労は解消されず、引きこもるようになってしまう。退職し、その生活が3ヶ月続いた。
4ヶ月目、さすがに危機感を覚えるようになり、転職活動を始める。
幸い、宅建の資格を持っていたため、別の不動産会社から内定をもらうことになった。
だが、1日出勤すると、翌日には出社できなかった。
身体が全くいうことを利かない。
次に受けたところも、その次も続かない。コンビニのバイトすら、1日しか持たなかった。
そのとき、自分はもう修復不可能かもしれないと悟る。
一時は、死を考えた。
母が施設入所を考えるほど、私は落ちぶれていた。
そんな毎日が冬から、夏まで続く。
社会復帰をしなければいけない──。未来を捨てたくなかった。
もう一度立ち直ろう。そう決意し、マンションの販売会社に就職。
業務内容は一日中外に出てチラシを配布するもの。
千葉や埼玉の奥地まで出向き、何百枚、何千枚と配っていく。
誰とも会話せず、炎天下のもと、黙々と作業をこなす。
それが逆に良かったのか、太陽の光に浴び続けることがリフレッシュになっていた。
ずっと家の中にこもりきりだったため、日差しの気持ち良さや心地よさを忘れてしまっていた。
以後、想像していなかったほどの復活を果たし、本当の意味で生きていた。27歳のときだった。
ある日、友人に誘われた飲み会に参加。
初対面の男が一人。肩書きはライフプランナー。
彼の仕事に興味が湧き、トントン拍子で上司を引き合わせられ、私はプルデンシャル生命保険株式会社に身を置くことに。
入るまで、彼の職業が保険業だとは知らず、決め手となったのは、紹介された所長が輝かしかったのを見たからだった。
入社直後は、なんとかなるだろうと高を括ってしまっていたゆえに、最初の1年は苦しかった。
だが、あの地獄のような日々を思えば、乗り越えられる自信があった。
もう、自分をコントロールできるようになっていたから。
それに、今は守らなければいけない存在が、ありがたいことに数多くいる。
大切なお客様に涙を流させないのはもちろん、私の愛する人も──。
32歳、過去の私を全て受け入れ、支えてくれている人と結婚。
初めての家族。
プルデンシャルのおかげで、身内が揉めないような対策を講じられた。
何もできなかった幼いあの頃。
20代半ばのときに、母や妹に迷惑をかけたときのような、家族の心がバラバラになるのはもう嫌だった。
他人には、同じ経験をしてほしくない。
その願いを抱きながら活動していても、職業柄申し込みを断られたり、嫌がられたりすることも多い。
挫けそうになる日もあるが、それでも、身近な友人が私に保険を預けてくれたときは──辞めてはいけない──と強く思うようになった。
全国に同業者は何万人も存在する。
その中から私を選んでくれたとき、生涯を通じて絶対に幸せにしなければならないと、感じるよう生きてきた。
そして、10年を越えた。
支社トップ賞、連続週間契約も継続で達成し、支社ギネスも更新中の身。
どれほど多くの人に支えられてきたのだろうか、と一人ひとりのお客様の顔を常日頃想像する。
しかし、唯一、この仕事を通じて理解できていない部分があった。
それは、子ども。
ライフプランを組む際、将来設計を語る上で子の存在有無は大きく左右される。
商談時、時々幼稚園児くらいの少年少女が私に近寄ってくる。
もちろん、歓迎するが、どうやって接すればいいかわからなかった。
だが、2018年6月──ついに第一子が誕生。
授かった命に感謝を抱き、妻と子に愛を注ぎながら、私は新たなステージへと駆け上がる。
これまでにはない責任を背負えることも誇りであり、また、お客様の子どもたちにも夢を与えられる。
彼らには、楽しそうに仕事をしている姿を、背中を、見せ続けたい。
お客様から、家族から、どちらにとっても生涯の支えとなる存在でありたい。
人にとって、笑って普通でいられ、生きていることが究極の幸福であり、素晴らしい価値と思う。信頼、信用できる家族が最後まで、そういう関係であり続けてもらうことを、ライフプランナーとして務めていく。
大事に育てられ、大切にされてきた、あなたを産んでくれたご両親にも同じ気持ちを届けたい。
息子、娘の幸せを願うのが、親だから。
出会った方々と、両家の家族に、悲哀を生む種を排除し、幸せを届けていくのが私の使命。
目に見えない保険という魔法が、幸福のカギを握る確かな証であることを、これからも伝え続けていく。
モデル:香川 壽宗
職業:保険業
あとがき:
2016年の年末、香川さんのお母様が大腸ガン、ステージ四の宣告を受けた。
元気だった姿からは想像できない過酷な現実を突きつけられる。
治療するには高額な費用がかかり、香川さんの家庭は頭を抱えていた。
しかし、プルデンシャルにはリビングニーズ特約──死亡保険金の一部を余命半年以内の宣告を受けた際に一部、もしくは全額受け取れる制度──があり、申請。
無事治療費を捻出し、回復に向かっているとのこと。
彼が、なぜこの仕事をしているのか。
それは本文を読んでいただければご理解いただけただろう。
その経験があり保険の知識があったから、前述のようにお母様を救えたのも確か。
自分自身や家族を『保障』という目に見えないベールで包むのは、病や死があまりにも戦慄的であり直視したくないものだからではないか。
それゆえ、直面した際にしっかりと、十分に備えられた対策を講じていれば、心の負担は軽減できると感じている。
老いれば病や死は必ず訪れる。どうあがいても変えられない未来。
だからこそ、最後の最後まで、安心して笑えて、幸せな家庭が、少しでも長く続くことを祈って香川さんは活動をされている。
また、お父様が遺してくれた生命保険5000万円。
このお金があり、香川さんと妹様は私立の高校と大学へと進学できたとのこと。
誰かの命は、誰かの運命を変える。
それは良い意味でも悪い意味でも。香川さんにとってはもちろん前者であり、お父様のおかげで学費については困らず、その恩恵もお客様に伝えている。
少子高齢化社会が進み、香川さんが経験してしまった幼き日の出来事は今後、増えていくかもしれない。
だが、そんな未来を実現させないために、彼は邁進し続けている。
世の人々が笑顔でいてもらえるように。
そのためには、これを読んでくださった人たちの協力が必要不可欠である。
知らないことを知らないままでいるのは恐ろしいこと。
少しでも香川さんにとっても、まだ見ぬどこかの家族にとっても、幸せを運ぶ担い手になってほしい。
著者としての最後の願いは、香川さんの気持ちや想いを届けてもらうこと。
多くの人に彼の存在を知っていただくことが私にとっても幸福のカギであるから。
ライフストーリー作家®︎ 築地 隆佑